時間を守ることが美徳?常識と正義の関係

 クアラルンプール自宅の引越し。新居の生活インフラ整備が大変だ。モノの問題ではなく、ヒトの問題だ――。

 各種の業者に依頼すると、予定通りにやってくるケースはほぼ皆無に近い(一部日本人担当者が絡んでいる業者除く)。「いま出るところですが、車両が故障しましたので、今日は無理です。明日以降になります」。こんなのは日常茶飯事。直前になって1時間遅れの連絡、次に2時間や3時間遅れの連絡、まあゆっくりでいいかと思いきや突然やってきたりする。

 マレーシアの場合、1日複数のアポを入れるのが無謀だ。各アポの実質的実施時間がその場、直前にならないと確定できないので、大混乱が起こる。基本的に1日1アポが無難。それでも日を改めることになると、他のアポに影響を与える可能性もある。分刻みで行動する日本人のほうがこの国ではむしろ異常な存在だ。時間刻みより日刻みといったところか、いやそれ以上かもしれない。

 すべて神様の意思によって人間の行動が支配されている、というイスラム教の考え方であれば、納得できる。出発直前の車両故障も神様の意思だから、逆らってはいけない。まあ、ご飯でも食べて、祈祷の時間だし丁寧にお祈りして、悠長にやろうよというのがマレー流だ。

 「何いってんだ。すぐ来い」なんて言っても、できないことはできない。いやだったらほかの業者に頼めばよろしい。ほかの業者も同じだったり、いやそれ以上に酷いかもしれない。

 だからその辺は、日本人感覚でのクレームや喧嘩は絶対ダメ。彼たちの視線や思考方法、行動パターンを読んで、逆手にアプローチをかける必要がある。ということなので、ヒトの問題とはいっても、他人でなく自分の問題である。

 悠長にやっていると、経済がなかなか発展しない。経済成長が遅いと、物価の上昇もゆっくり。そういう意味で、直近マレーシアの物価上昇が早いとは言っても、アジア全体的にあるいは世界的に見た場合、まだまだ相対的安い部類に入る。逆に、われわれのような外国人がこの国にやってきて、セカセカしていると、変な目で見られたりするのかもしれない。

 経済発展という常識をもって、悠長なペース、社会的秩序を破壊していいのだろうか。常識はどこでもいつでも、正義であるとは限らない。

 「時間を守ることは、美徳だ」という常識が通じないマレーシアである。