連休雑想、「父母官」と「子民」の社会に差し込む光

 中国の国慶節連休がまだ続いている。中国の祝日は毎年毎年連休のスケジュールが変わる。普通の平日が休みになったり、土日が振り替え勤務日になったり、いつも混乱する。海外に住むと、余計分からなくなる。「えっ、今日は中国の休みだったっけ」なんてこともしょっちゅう。

 そもそも、連休は個人個人の都合に任せればいいじゃないか。法定有給休暇制度があるし、連休を避けてオフシーズンを利用してゆっくり旅行に出かけたいという人も、強制勤務の日曜日に教会へ行きたいという敬虔な教徒もいるだろう・・・。

 人それぞれの私生活の領域に政府が無理して、「善き心」かもしれないが、踏み入れることはいかがなものだろうか。

 「子民」という中国語がある。皇帝統治下の人民で、皇帝が自身の子女や子孫同様に管理し、指導し、保護するという意味で昔使われていた。また、聖書の中国語版を見ると、「主の子民」や「天国の子民」といった用語が見られ、「信者」という意味で使われていることが分かる。皇帝と神はそもそも近い存在であることを考えれば、意味が通じるだろう。要するに、「主従」「上下」という位置関係を示す用語である。。

 「子民」の対極は、天子に当たる皇帝だけでなく、「父母官」と呼ばれていた地方を治める官僚も網羅されている。古代中国は地方官僚のことを「牧守」と称し、「子民」は放牧されている牛や羊のようなもので、守りながらも教化しなければならない。中国の伝統に従って、人を教化する権利は父母にしかない。だからこそ、官は「父母官」、民は「子民」となるわけである。

 今日において、さすがに表向きには「父母官」や「子民」というような言葉を使う場面がなくなったが、ただ意識的に完全に同期しているか、「子民」が市民や国民、公民になったかというと、かなり怪しい。

 連休の話もそうである。連休消費という経済効果目当てである一方、「父母官」の「善き心」で「子民」の休暇権を守ってやるという上からの目線は否めない。このような「主従」や「上下」の位置関係が表向きの制度として消えたとしても、中国社会の土壌に深く根ざしただけに、決して根絶することはなかろう。

 このままでは、いつまでも現代社会の公民が育たない。それに危機感をもった中国人も最近増えてきたように思える。より独立した人格を求めて、主張し始めたのである。この声はどんどん大きくなってほしい。この一縷の光がより多くの空間を照らしてほしい。

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