田中さんと中村さんの争い、愚と無知の集結は裁かれぬ罪

 数日前、フェイスブックである方が「A論が正しい」と主張する投稿を見て、私は質問してみた。「A論を裏付ける根拠を教えてください」。すると、返ってくる回答は、「その根拠は、あなたが調べなさい」

 さぞかし驚いた。

 田中さんが中村さんに、「あなたがもっているその100万円は私のものだ。私に返しなさい」と主張すると、必ず、中村さんは「なぜこの100万円があなたのものか、その根拠を見せなさい」という。すると、田中さんは、「その根拠は、あなたが見せなさい」と言って来たら、どうする?

 自分の主張を、他人に証明させる。これはどういうロジックか。自分の主張を自分で責任をもって証明するのが法律のルール。それが真っ向から否定されれば、法律も裁判所もいらない。

 中村さんがもっているその100万円は、一体誰のものか。無数の仮説を立てられる。中村さんが自分で稼いだ金かもしれない。田中さんが中村さんに貸した金かもしれない。田中さんが中村さんに上げた金かもしれない。いや上げたつもりだったが気が変わって取り戻そうとしたのかもしれない・・・。

 だから、証明する必要がある。本来なら、「その金は私のものだ」と主張する田中さんが証明しないといけないことだが、その証明責任を中村さんに転嫁した場合、結果はどうなるか。

 法治社会の場合は、裁判所へ行くことになる。裁判所に行ったら、田中さんが自分の主張を証明できないので、裁判に負けてしまう。しかし、法治社会でない場合、力で問題を解決することになる。

 金が中村さんのものであっても、力の強い田中さんがそれを強奪する。あるいは、金が田中さんのものであっても、力の強い中村さんから取り返すことができず、泣き寝入りする。

 「自分の主張を、他人に証明させる」。法治社会や理性社会の基本的原理に反する論理が、世の中で平気で横行することは、愚の氾濫にほかならない。

 いや、愚は罪ではない。自身の愚を知らない愚は無知であって、無知も罪ではない。ただ、愚と無知の集結が怖い。そこに民主主義制度が加わると、がんの拡散となり社会には罪となる。しかし、その罪を裁けないのが民主主義のジレンマであって、裁かれない罪が集結した先はどうなるか、ご想像にお任せする。

 (愚+無知)×民主主義=裁かれぬ罪