保守とリベラルの交差、資本主義という終着駅と向き合う

 ”If you are not a liberal at 20, you have no heart. If you are not a conservative at 40, you have no brain.”

 ウィンストン・チャーチルの言葉。「20代にリベラルでなければ情熱が足りない。40代に保守主義者でなければ知恵が足りない」と。

160614-1148-Cameron Highland-農業研究試験場(写真:2016年6月14日、キャメロン高原・農業研究試験場)

 私自身もその軌跡を辿って、若い頃はずいぶん急進的だったのに、30代後半から少しずつ変質し、いまは少なくとも「保守」的なイメージを持たれる存在になっていると思う。

 でも、よく考えると、果たしてそうなのか。たとえば、伝統的な秩序や権威を守るというのが保守だとすれば、私は状況次第で非合理的なものを打破することを主張しているし、仕事の場でも組織文化などの革新を提唱する進歩主義者である。

 要するに気が付けば、保守主義とリベラルが共存しているのではないかと。かといって、自己矛盾を感じているわけではない。

 保守とは、何を守るか。リベラルとは、また何を革新するか。しかるべき価値基準をもって判断することには抵抗を感じないし、むしろそのほうが理性的かつ合理的であるとさえ思う。

 戦後の日本は、どうもリベラル、つまり「進歩」が絶対善化されてきた。そもそも「進歩」の無原則の善化それ自体が一種の「保守」になっていないか。特に学術界でファッション化されたリベラルへの固執は、非科学的かつ非論理的で、学術の第一義に反する。

 非常に危険な現象でもある。

 「進歩」は常に善とは限らない。進歩による副作用が悪だったり、その悪が膨らみ致命傷となることもある。さらに、この世界は果たして無限の進歩はあり得るのかと、私は懐疑的である。

 「進歩」に終着駅があるというときもある。社会の発展も、資本主義の先は何だと、共産主義が歴史によって否定された時点で、資本主義が終着駅であることを認めざるを得ないだろう。

 資本主義が最善ではないことも、共産主義が最悪であることも、実証されたときに、次悪である資本主義を受け入れることの合理性が明らかだ。そのとき、資本主義制度を守るという「保守」と、資本主義制度枠内における改良という「リベラル」の共存は、何ら自己矛盾をも構成しない。

 チャーチルの言葉をもう一回思い出す。「20代にリベラルでなければ情熱が足りない。40代に保守主義者でなければ知恵が足りない」。その「リベラル」と「保守主義」は、どちらかというと、「理想主義」と「現実主義」に置き換えたほうがより適切ではないかと、私は思う。

 現実と向き合うことは、人間という生物の老化をも意味する。死に向けてのカウントダウンを意識しながらの自己改造というリベラルは、老いのロマンであろう。

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