バングラデシュ、パキスタン・・・。クウェート滞在中に利用したタクシーの運転手、アラブ系のクウェート人は1人もいなかった。ホテルのフロント係や店の売り子の場合、ほとんどフィリピン人。
クウェート・タワー
クウェートという国は、外国人労働者によって支えられているといっても過言ではない。カンドゥーラ姿のアラブ人はホテルのティーラウンジで優雅にお茶を飲みながらビジネス相談をしている。
エリート層と労働者層、はっきり別れている。彼たちは相互に乗り入れることも融合することもなく、棲み分けをしている。けれども、見事に一体化したクウェート社会を成している。
シャークマーケットのヨットハーバーから望むクウェート中心部
これは日本人では考えられないことだろう。同じ団地に住み、同じ駅を利用し、同じサラリーマンとして勤め、同じ人生が予定されている人たちが、時代の翻弄によっていわゆる勝ち組や負け組に別れ、もしやこれからは「棲み分け」せざるを得なくなるかもしれない。これほど耐え難いことはない。
階級や階層。このクウェート社会では公に語られることがなくとも、現実として少なくとも見た目では平和に受け入れられている。少なくとも、「クウェート死ね」と絶叫する者はいないようだ。
ウィキペディアによると、クウェートは、憲法に基づき首長(立憲君主制)、国民議会、内閣の三者を中心とした統治形態が取られているが、首長が議会を解散できる・首相を任免できるなど権限が強化されているため、これも建国当初から有名無実化している。事実上、一族独裁による絶対君主制。
言論・表現の自由も存在しない。2011年6月には、エジプト人の児童がクウェートの小学校で、「どうして先生の国では革命が起きないの?」と教師に質問しただけで民主化要求デモ煽動の廉により停学処分となっている。
とのことです。従って、「クウェート死ね」という国民はいないのも当然ですね。日本も言論・表現の自由をなくせば、「日本死ね」という国民はいなくなるでしょうね。
「言えない」と「言わない」というのは2つの異なる概念です。
言論自由云々法的担保以前の問題で、クウェートの場合、下層民のほとんどが外国人出稼ぎ労働者です。彼たちは「クウェート死ね」どころか、クウェートが病むだけでも困るのです。他方、多くのクウェート国民の大多数はまさに独裁王政の受益者で、死ぬなんて言うはずもありません。
さらに言ってしまえば、「自国死ね」という人間は、人格的にどのように見られるか、もはや言論・表現の自由と異なる次元ではないかと思います。本稿ではあえて「○○死ね」という比喩を引っ張り出したところ、いろんな吟味や連想を喚起できればと思います。
最後に、エジプト人の子供の発言は、まさにエジプトとクウェートの両国の本質的相違を如実に反映しているものでしょう。