寛大に寛ぐ、「寛」の捉え方と海外和食の楽しみ方

 12月からは出張や旅の連続であった。

 中東視察から帰ってきたと思いきや、すぐに中国出張とベトナム出張。先週金曜日、ハノイ出張中に宿泊先ホテルのコンシェルジュに薦められて出向いた居酒屋「寛」(Khang)はとても美味しかった。

 ベトナムの変化が大きい。3年前と比べて、ホーチミンだけでなく、ハノイでも日本料理店が急激に増えた。味もずいぶん美味しくなった。

 海外の和食は多少難ありというのはやむなし。思うには、日本料理というのは基本的に、感性に頼る芸術的なもの、技能や勘に頼る「あんばい的」なもの、そして習得や熟練度に頼る複製可能なものという3つのレベルがある。特に中後方に属すカテゴリーは海外でやりやすい。

 外国人調理人の場合、「あんばい的」部分で時々不覚に、無意識に自分の感性が出たりするので、おやと思わせるときもある。それは人間ってみなおふくろの味という刻印が刷り込まれているのだから、必ずそういうところで出てくるものだ。食べる方はむしろ寛容に考え、ご愛嬌と捉えた方がよろしい。

 異なる側面を見ると、日本食に混入されるそういう地元おふくろの味は、地元客の共鳴を呼び起こす効用がある。よく海外で大繁盛している日本料理店で、日本人が食べると「変だ」と眉をひそめることがある。それはそれでいいと思う。日本食は世界の市民権を得た以上、良い意味での雑物混入はむしろ歓迎されるべき事柄であろう。

 「寛」というのは、寛大に寛ぎの時間を楽しむという意味で捉えたいものだ。