欧米豪といった地域を旅行していると、たまに、本当にたまにだが、スポット的な場面において、白人からの黄色人種に対する差別を感じるときがある。
無論その差別とは、直接の言動による顕在的かつ露骨なものではない。その多くは、相手(白人)の表情や語気といった極めて潜在的な部分に感じ取られる「空気」なのである。「空気を読む」というが、それ以前に、空気を読まされるような場面である。
妙なことに、私はそうした差別に対しそれほど反感を抱くことはない。無意識な感情発露は、その本人でも抑えられないものだからである。そこから、私はある種の確信を得た。つまり差別というものは地球上から永遠に消えることはないだろう。たとえそれを極悪としてどんなに叩こうとも。
レイシズムには反対である。普遍的価値観としての良識と世界のあるべき姿にも共感をもつ。基本的人権、公民権、すべての法的権利、社会的地位といった部分においては、現今の世界はレイシズム撲滅に向けて着々と進んでいるが、ただ人間の本能的な感覚レベルにおける差別意識は抹殺され得ない。
フラット化する世界において、差別現象はむしろ拡大し多様化している。たとえば、同一種族・民族のなかの差別は、レイシズムの所産とは言え難い。レイシズムはあくまでも差別の一種に過ぎない。差別というものはもしかすると、人間という生物の深いところに根ざした本能からの所産なのかもしれない。
人種や出自、性別、財産や経済所得、教育、職業といった従来の差別分野から、昨今の世界では、価値観レベルの差別の拡大が特に際立っている。
差別には基本的に2種類ある。上下関係に基づく縦軸型差別と、フラットな同一平面における横軸型差別。価値観の相違に起源する差別はそもそも平面・横軸型の差別に属する。厳格に言うと、差別でなく区別なのだ。であれば、必ずしも悪とはいえない。
さらに利益集団同士の戦いにおいても、自分の被差別の弱者立場を意図的に誇張する現象が多々見られる。差別者が非正義であれば、被差別者は自動的にその対極に立ち正義となり、道徳的優位性を手に入れられるからだ。被差別弱者化は、一種の戦術として使われている。
平和がよい。戦いはよくない。戦いを減らすためにも、棲み分けが必要だ。融合が善で、分断が悪という固定概念も見直すべき時期がやってきたのではないか。棲み分けとは、上下関係の差別ではない。平面上において平和実現のための区分作業なのだ。