「子供を産む」生産性云々、「生産性」が頻繁に語られる時代になった。それは大変良いことでまさにいまは生産性を語らずにサバイバルできない時代なのだから。
ただ「生産性」とは何か、その定義と射程を正確に把握する必要がある。たとえば最近政治家の発言などで騒がれている「子供を産む『生産性』」というのは、いささか笑うに笑えない滑稽な話だ。
子供を産むだけなら、それは「出産性」であって、「生産性」ではない。あるいは、「生産性を生み出す可能性」と言ったらよかろう。
「生産性」とは何か。ウィキペディアを調べると、「経済学で生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度、あるいは、資源から付加価値を産み出す際の効率の程度のことを指す」と記載されている。
出産それ自体が直接的生産活動にあたらないため、寄与度も当然語れない。生まれた子供は時間をかけて労働力として生産活動にかかわることは可能だ(そうでなければならない)が、それは不確定要素であってせいぜい一種の可能性として位置づけるべきだろう。また成人後の寄与度も同様不確定要素である。
生まれた子供には多くの投資、公私両方の投資が必要だ。最終的にその人の生涯にわたって投入された資本とその人間から生み出された価値を比較して、その生涯生産性の正味を評定する必要がある。
故に子供を産むだけで生産性が上がるとは限らない。優生学という学問だが、ナチスの一件があって以来、タブーとされる傾向があるが、人権侵害といったマイナス面を切り捨て、ポジティブに捉え、取り組むべきだと私は考えている。
子供を産む「出産性」よりも、生まれた子供の将来的「生産性」に着目する、ということだ。将来的リスクを低減し、より確実な将来的生産性を担保するための科学であれば、優生学は社会公共利益の増進につながり、正当に評価されるべきであろう。
「産め産め」よりも「良い子を産め」ということだ。まあ、ここまでいうと、少なからず反論や批判も出るだろう。昨今社会の主流となる価値観からいささか逸脱するような言論は常に叩かれる対象となる。
優生学云々言っても、産まない人はやはり産まない。ならば、産まない親たちが生まれてこなかった子供の分の生産性も頑張って社会に寄与すれば、それだけで済む話ではないか。要するに、生涯の生産総量計測において、1人が2人分や3人分、いや、もしや10人分や100人分も働けば、それでいいわけだ。
このような観点を国家運営次元に反映すれば、決して現下ありがちな「1人を産んだらなんぼう」といった短絡的な政策ではないはずだ。創造的人間の育成、そのための組織づくりとインセンティブ政策、定年制度の廃止、年金辞退者への特権付与・・・、こういった終身現役制度の構築によって、真の高生産性社会を実現することだ。
私の持論だが、日本の問題は、少子化の問題ではなく、多老化の問題だ。