「民意」と「民益」の関係、美辞麗句の裏を覗く

 「民意」「民意を問う」「民意を反映した国政」・・・。「民意」ほど心地よい美辞麗句はない。さらにいうと、「民意」ほど美辞麗句にすぎない美辞麗句はない。

 為政者にとって、「民意」よりはるかに重要なものがある。それが「民益」なのだ。「民益」と「国益」とは微妙な差があるが、それを論じるのを別の機会に譲ろう。ここで言いたいのはしばしば見られる「民意」と「民益」の乖離

 「民意」は常に個人ベースの民の意思であれば、それはあくまでも個人利益の総和にすぎない。その個人利益の総和が果たして民という集合体の利益を代表するのか。一例を挙げよう、「税金を安くしたい」けれど、「きめ細かい行政サービスもやってほしい」。まさに対置される二律背反の代表例だろう。

 このように、「民益」以前の問題であって、「民意」それ自体の矛盾もしばしば見られるわけだ。どっちもほしい。それをうまくやりくりするのが政治家の仕事ではないかと、民自身も解けない問題を政治家に押し付ける。

 そこで、「民意」に迎合すべく、政治家はいい加減な約束をして自身の地位を確保することを優先すると、まとめな政治ができるわけがない。いまの日本社会では、真の「民益」とは何かという第一義的な課題が置き去りにされている。

 民も官も政治家も誰もが基本的に自己利益優先だ。民主主義制度下において、政治家は「民益」を問うよりも、「民意」に迎合したほうが、政治家個人の個益になる。こうした現象を淡々とした目線で見つめるべきだろう。

 こう言った話を縷々と書いているのは、誰かを批判するためではない。政治家批判でもなければ、民衆批判でもない。人間という生物には生来「自己保存」と「自己拡張」の遺伝子(本能)が刷り込まれている。無論、私も含めてだ。

 故に、民として真の幸福を手に入れようとするならば、政治を見つめながらも、政治に依存しない自分を作り上げることに尽きる。政治や国が良くなったら、自分も良くなるというのではなく、どんな政治であっても、どんな国であっても、自分は必ず良くなると、そういう強い、強い自分を作り上げることだ。

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