「搾取」と「剥奪」、マルクスも真っ青な「剥奪理論」

 「データで解明、貧困で『人間らしい生活』はこれだけ剥奪される!」(1月26日付け「ダイヤモンド・オンライン」)というコラム。見出しに惹かれて読んでみた。

 「人間らしい生活」とは何か?この概念について議論するつもりはない。「剥奪」という概念、これは少々吟味する必要がある。「可処分所得が下がると、何かを断念しなくてはならなくなり、『剥奪』が起こる」と、執筆者が主張する。

 「子どもを塾や習い事に通わせられない」「ふりかけを激安パスタにかけたものしか食べられない」・・・。そうした事象も「剥奪」の結果だとすれば、誰と比べて言っているのかという問題が浮上する。

 「日本の貧困を考えるのなら、最富裕層を含む日本のすべての人々の中、日本社会の中で比較する必要がある」。ついに本音を吐いた。

 野村総研の調査では、保有金融資産の規模で、①超富裕層、②富裕層、③準富裕層、④アッパーマス層、⑤マス層の5区分に分けられている。保有金融資産額5億円以上の超富裕層をも含めて比較する意味はあるのだろうか。

 話を戻そう。「何かを断念しなくてはならなくなり、『剥奪』が起こる」。「断念」は自己完結型行為だが、「剥奪」は他者行為で、剥奪者という新たな主体が生まれる。いったい誰が剥奪者なのだろうか。

 マルクスは「搾取」の理論を打ち出した。その際、ブルジョワジーがプロレタリアートを搾取するという明確な主客体が存在していた。「剥奪」は「搾取」よりさらに深刻なだけに、剥奪者の正体不明では説得力がない。

 さらに、暴力装置の問題がある。マルクス理論によれば、支配階級の搾取は、支配機構つまり暴力装置によって維持されていたというのだが、では、「剥奪」は少なくとも同等、あるいは場合によってより強力な装置を必要とする。それは何なのか・・・。

<次回>

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