中国人の「唯物主義」と日本人の「唯心主義」

 中国人は「唯物主義」、日本人は「唯心主義」という区分がされているようだ。

 中国の教育は、マルクス主義の唯物論に基づいて行われている。しかし、「唯物」は、「モノ」そのものに停滞しているような気がする。自分の考え方や結論を裏付ける材料を客観的に集め、ロジックを組み立てる段になると、苦手。議論の争いになると、人格攻撃に持ち込まれやすい。

 弁護士まで、ロジックをうまく組み立てられない人がいる。ある法廷では、某弁護士が、「これは、客観的事実である」と主張しながら、一向に証拠を提示しない。ここは、完全な「唯物論」でなければならないのに、主観的な部分を勝手に主張するわけだ。

 あるエピソードを紹介する。

 ある日、私が、出張先の大連空港で飛行機に乗って上海へ向う。隣の列に座るおじさんがずっと携帯電話で話しをしていた。飛行機が登場口を離れ、滑走に入ると、客室乗務員が止めに来る。何回言っても、おじさんが一向に電話をやめる気配がない。いよいよ離陸しようとエンジン全開体勢になると、客室乗務員が困った顔を見せる。

 私は、これ以上耐えることができなくなり、そこで、「電話をやめろ」と一喝。おじさんが、あわてて電話をやめ、一瞬びっくりして言葉を失うが、しばらく経って気を取り戻すと、「あなた、頭がおかしいんじゃないの?」と、私に攻撃を仕掛けてくる。

 「法律も規則もあるんでしょう、客室乗務員は、何回もあなたに言ったじゃないですか」と私が言う。
 「だから、それは、あなたに何の関係があるのか?この携帯電話は、私の携帯電話ですよ、私がいつどう使おうと、私の自由でしょう!」
 「規則があるんでしょう、今は使っちゃダメだと言ってるんでしょう」と私。
 「だから、あ、な、た、に、は、な、ん、の、関、係、が、あ、る、の、か?頭がおかしいじゃないか」とおじさんも諦めない。

 このおじさんと、もうこれ以上話を続けても無駄。確かに、携帯電話の「所有権」と「使用権」という唯物論の世界では、彼が言っていることは間違いない。けれど、「法律」「規則」「公衆利益」といった無形物(次元)になると、論理の飛躍が明らかだ。しかも、人格攻撃態勢に入る。可哀想だ、人間としては。

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