嫉妬学(3)~日本型組織の「平等」は偽善と詐欺である

<前回>

 妬みは実は同質性から生み出されている。異なる集団の間に差異があっても、同じ集団内には同質性しか存在しないという認識は正しいのだろうか。

 集団のサイズによるかというと、最小集団である夫婦の2人単位でいっても、同質性で説明できない。夫婦の不和が異質性の表出であるからだ。集団は同質性という建前の下で、実は多様な個体(多様性)の集合体である。この実態を無視し、集団の同質性を掲げてきたのは、日本である。

 会社などの組織が同質でなければならない。いくら良いアイデアを提案する者も異端児として扱われ、嫉妬の対象にされやすい。他者の特に異なる価値観の受容は集団の自己同一性を脅かしかねない、そう反射的に捉えられるのである。忖度という行動はむしろ同質性維持のための合理的な行動に過ぎない。同調圧力もまた然り。

 多様性やらイノベーションやら、どんなにいっても日本社会ではそれらを受け入れる土壌ができていないので、そもそも無理である。日本社会ないし日本型組織の安定性を維持するには、同質性ゆえの嫉妬を排除し、平等を保たなければならない。

 自由と平等という2つの概念は往々にして共存しない。奴隷制度の下では、奴隷は身体的不自由に由来する不平等だったが、日本社会は平等に由来する精神的不自由といったほうが適切だろう。だから、サラリーマンのことを奴隷やら社畜やら呼ばわりをするのは、この不自由感が付きまとっているからだ。

 しかし、どんな社会においても平等は存在しないことを多くの日本人が認識していない。封建制度やカーストなどいわゆる身分や階級制度はむしろ不平等を前提にし、社会秩序の安定を求めた。身分的格差は生まれつきであり、神が決めたことである以上、正当であると理解したから。何ら不条理も感じられない。むしろ格差の解消や平等を図ることが異常だった。その時代は、格差や不平等の存在を現実として認知したのだった。

 民主主義社会になってみると、社会の不平等が消えないにもかかわらず、平等を目指さなければならなくなった。平等の実現が不可能であっても、その事実を述べることすらできなくなった。諸種の不平等に対して何らかの理屈をつけて糊塗する。糊塗することができない場合には、往々にしてその事実を口にした人物を叩き潰す形をとる。

 つまり、「What」の問題を「Who」に転嫁する。差異も差別も言わなければ消えるものではない。不平等は幾分緩和したように見えても、根底からこの世から消えることはあり得ないのだ。

 日本型の会社組織は、平等を求めるというが、結果として年次累進的な均等型割り当てが、「働かないおじさん」を生み出し、働く若者だけでなく、働くおじさんにも甚だ不平等を押し付けていることを決して看過できない。平等を偽った不平等であるが故に、封建社会の「素直な不平等」よりもたちが悪い。

<次回>

タグ: