嫉妬学(4)~強肉弱食、不平等関係の逆転現象

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 嫉妬は不平等感から生まれる。近代社会では、民主主義の下で人権における本質的な差別の解消(同質化)が進み、不平等が緩和されつつある。しかし、妬みの情感が一向に弱化しない。逆に増強している。なぜだろうか。

 同質化が進めば進むほど、些細な差異でも可視化されてしまうからだ。言い換えれば、平等化が進めば進むほど、不平等が目立つのである。同種同類の他人と比較して格差、あるいは自身の失敗不幸が目立ち、その原因を不平等から見出そうとする。人間は自己正当化する本能を有しているからだ。

 「不平等が社会の常識になっている時には、最も著しい不平等にも人は気づかない。それに対して、すべての人々がほとんど平等になると、どんな小さな不平等であっても人の気持ちを傷つけずにはおかない。だからこそ平等が増大するに従って、より平等な状態への願望は常に一層いやしがたいものになり、より大きな不満が募っていくのだ」

 フランスの思想家トクヴィルの指摘が鋭い。

 平等という理想不平等という現実のギャップがどんどん顕在化する。そもそも格差や不平等という基準は均一にできているわけではない。各人が独自に判断しているから、「健全な格差」「健全な不平等」というものは存在し得ない。あらゆる格差や不平等は許されないというポリティカル・コレクトネスができあがる。

 人間には生まれつきの能力差がある。日本社会では、これがまず認められない。喋ってはいけない禁句なのである。能力差が現実として現れたとき、あらゆる人為的手段によってこれを糊塗しなければならない。

 社会人類学者の中根千枝氏がその名著『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)のなかでこう述べている――。

 「……こうした日本的イデオロギーの底にあるものは、極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等ともいうものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)である。 これは西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なるものであるが、日本人の好む民主主義とは、この人間平等主義に根ざしている」

 「これは、すでに指摘した『能力差』を認めようとしない性向に密接に関係している。日本人は、たとえ、貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも(同等の能力をもっているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じこんでいる。そういう悪い状態にある者は、たまたま運が悪くて、恵まれなかったので、そうあるのであって、決して、自分の能力がないゆえではないと自他ともに認めなければいけないことになっている」

 だが、先天的であれ後天的であれ、人間には能力差が存在している、という歴然たる事実がある。これが生来の不平等というならば、神の罪に帰結せざるを得なくなる。そもそも、不平等も格差も道徳観的な善悪には無縁であって、単なる「存在」にすぎないのである。

 しかし、能力差という事実を回避するために、格差を生む責任(罪)を何らかの外部要素に転嫁しなければならなくなる。その外部要素は政治だったり、社会だったり、企業だったり、あるいは法制度だったりする。とにかく不平等が悪い。

 日本社会に深く根ざした「能力差の認知回避現象」それ自体が歴史的文化的社会構造的次元から見れば必然的帰結である。農耕社会の出自をもつ日本では、能力差を明らかに認めることは、嫉妬心を惹起し、調和の毀損、ひいては社会の機能不全を引き起こす原因となるからだ。日本社会では、ある人がたとえ自分の能力で成功を収めた場合であっても、「皆様のおかげです」と言わなければならない。その原因はここにある。

 時代の変遷、日本社会は農耕型から狩猟型に変わろうとしている。農作物を均等に配分することができなくなり、狩りに出なければならなくなった。そこで身体の強い人、嗅覚の発達した人とそうでない人の差異が出、前者がより多くの獲物を得るようになった。ここで2つの格差解消作業が必要になってくる。

 1つ目は、強者が取った獲物の一部を弱者に分ける「結果差の解消」。2つ目は、弱者の能力劣等性を顕在化させないための「前提(能力)差の解消」である。これは別の目線からみれば、強者に対する甚だ不平等(不公平)なシステムだ。

 すると、強者が不平等回避に動く。方法は2つある。1つは強者をやめて弱者(弱者を装っているうちに、弱化する)になり、分配を享受する方法。もう1つはムラから脱出して棲み分けする方法である。その結果は明らかだ。ムラ全員が得られる資源がどんどん目減りし、均しく貧困化する。

 強者が棲み分けしたところで、どんなに多くの獲物を享受しても、とりあえず弱者ムラからは見えず、強者との比較がなくなれば、嫉妬の情念が弱化し、消滅する。

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