私はこうして会社を辞めました(45)―さよなら香港

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(敬称略)

23536さよなら香港

 1999年秋、私の東京帰任の内示が出た―2000年1月1日付ロイター・ジャパン勤務。

 6年間の海外生活で、東京は、私にとって近くて遠い存在になった。東京の空はどんな色だろうか。日本での生活・仕事には順調になれるかどうか、自信がなかった。

 帰国命令が出た背景は、香港日系法人市場の回復だけではない。私の部下である木津の成長も原因の一つだった。今になって、「あの時は、部下の木津君がバリバリ働きすぎるから、上司の私がクビになった」と半分冗談で私がよく言っているが、それがある意味で嘘ではなかった。

 思い起こせば、当初、北京の池山の帰国で私一人が中国全土の担当になったし、また、香港の伊野の後任として私が香港に転勤し、東アジア担当になった。そこで、新人の木津が育った時点といえば、私の東京帰任があまりにも自然すぎるくらいの流れである。正直言って、私は香港、海外に残りたかった。後になって、私は当初木津を採用せずに、引き続き一人で日系市場をやっていれば、香港に残れたはずじゃないかと、いささか後悔したこともある。でも、もしそうであれば、私がロイターを辞めることもなかった、そして、独立して起業することもなかった、今のエリス・コンサルティングもなかったということになる。もしかすると、一人で無理して日系市場をやっていたら、結果的に大病で倒れていたかもしれない。節目一つ違えば、流れの方向が変わり、次の節目も変わってくる・・・

 私の東京帰任のあと、木津がロイター香港で私の後任として、日系企業担当マネージャーとなり、給料も上がった。ロイターでは、ポジションに人を当てるというコンセプトが非常に明快である。日本企業は「人がいての仕事」、欧米企業は「仕事があっての人」、言い換えれば、日本企業は「人生の将来のために働く」、欧米企業は「人生の今を生きる」ことになる。どっちが良いか?それは人それぞれである。幸運なことに、私は生涯その二つのスタイルをすべて経験させてもらった。このような異次元の勤務経験は、後日の私のコンサルタント生涯に大きく役に立ったのだった。

23536_3ロイター香港駐在時、私は記者じゃないのになぜか中国のビザは記者ビザ

 木津は、私の後任としてロイター香港で日系担当マネージャーを4年務めた後、2003年末に会社を離れた。彼の回想録に、ロイターでの5年間について「毎日良く働いたし、私のキャリアの基礎を築いてくれたのも、この会社だ」というふうに記述された。私も同じ思いである。ロイターは、私の生涯に与える影響が決して小さくなかった。

 1999年末に向けて、ミレニアムを迎えようと香港の街は、すっかりお祭りムード一色となった。新千年紀の始まりとともに、キリスト教の大聖年の祝いもあって、渾然一体となった祝賀イベントが街全体を盛り上げた。

 しかし、私はとてもお祭り気分になれない。東京勤務への不安が年末に近付くにつれ強まる一方だ。不安の頂点に達したのは、帰国直前ロイター・ジャパンから正式帰任の人事令と配属決定をもらったときだった。ロイター・ジャパンでは、私が、NP部(仮名)配属となり、課長職に付く。NP部は、どうやら異色の部署として社内で有名らしい。ロイター通信のインターナショナル性に正反対で、とにかくどろどろのドメスティックの部署だという噂は、前から聞いていた。私の一番苦手なパターンだ。

 現実を変えることは不可能だ。いまさら考えても始まらない。とにかくやってみるしかない。私は腹を決めた。

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