胡蝶蘭を眺めながら戦争を考える

 我が家の庭に面白い花風景がある。木の上に、土なしの状態で胡蝶蘭が咲いた。妻の作品である。私はいささか驚かされた。植物には土が必須という固定観念があったからだ。

 なるほど、胡蝶蘭は木に寄生もできるのだ。と、私の間違った認識がエスカレートする。土がなければきっと別のものに付着してそこから栄養を取って生きているだろうというのは、固定観念に基づく謬論だった。寄生植物と宿主植物の相互関係を知りたくて調べるとまったく異なる事実が明らかになった――。

 胡蝶蘭はもともと高温多湿な熱帯雨林に生え、根っこは木の上にあり、木に生えているようだが自生している。それも過酷な環境に耐える胡蝶蘭自身の知恵あるいは生きる力でもある、と。さらに調べると、胡蝶蘭は根腐れを起こしやすい性質のため、土で育てるのに向かない植物だったことが分かった。

 植物専門家ではないので、これ以上胡蝶蘭の生態を精査することをやめた。それよりも人間の固定観念を覆す事象の存在に興味をもった。

 植物Aは土のなかに生えている。植物Bも、植物Cも、植物Dも土の中に生えている。だから、植物はみんな土のなかに生えている。というのは典型的な帰納法だ。複数の事実や事例から見出される共通点をまとめ、そこから結論を導き出す方法。白鳥はみんな白い。たった1匹の黒い白鳥(ブラック・スワン)がいれば、結論が崩れる。

 帰納法対して、演繹法というのがある――。「(A)戦争は人が死ぬ+(B)人が死ぬことは悪いことだ=(C)戦争は悪だ」。広大な宇宙という一般論から、戦争という個別論に至るまでの推論である。

 一方、帰納法でアプローチしてみると、「A戦争は悪、B戦争も悪、C戦争もまた悪…、だから戦争は悪だ」。これは個別論の列挙から一般論を導き出す推論である。

 両法からいずれも「戦争は悪だ」という結論が導き出された以上、戦争は悪だという仮説はほぼ確定する。では、アプローチを変えてみよう――。戦争が悪であれば、平和が善。では、「平和を求めるための戦争は悪なのか、善なのか」という問いにどう答えようか。議論は詰まってしまう。議論が詰まるのは論法に問題があったからだ。

 その問いには、前提となる基本的な問いがある――。「戦争はなぜ起きるのか」

 「戦争」とは単なる「現象」であり、「本質」ではない。この核心がスキップされたまま、現象に対する議論や結論導出がされるのでは、演繹であれ帰納であれ、誤謬が付きまとう。

 戦争を本当になくしたいなら、単に平和を唱えるのでなく、戦争の原因を突き止めなければならない。しかし、その根源摘除はなされていない(なぜなされないのかという議論は別の機会に譲る)。だから、戦争はなくならない。

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