お茶出しの仕事の学問、数学や統計学で解決できない問題

 週明けの月と火の2日間、某香港系人事研修会に参加した。内容は、賃金体系の設計と詳細仕組みの勉強である。

 よその人間が研修会会場に一歩踏み入れると、数学・統計学の学会と思ってしまうかもしれない。一つひとつの職位・等級を分解し、その価値(賃金評価の対象)を数学・統計学的に評価する作業が繰り返され、それに対応する賃金レンジが設定されるのである。

 パソコンでエクセル表の数々の図表や関数ツールを駆使し、出来上がった滑らかで美しいカーブを描く曲線を眺め、手にするエスプレッソの香りがちょっぴり自慢げな達成感と相まって、実に美妙な昼下がりを織り成す。

 ふと鳥肌が立った。生きた人間は動機付け一つで行動が変わる。そんな人間のパフォーマンスを完全にデータ化し、数学的に、科学的に捉える事が果たしてできるのだろうか。

 このような米国流の賃金設計は、あくまでも一つのポストに一人の人間、そして職務内容もすべて100%決まっているという前提であれば、それは実に科学的なツールといえるだろう。しかし、二つの事実がある――。

 一つ、日系企業は、通常仕事に対して過剰に詳細を決めないで、従業員の自律性を求めている。一人ひとりの従業員の守備範囲は、かなり伸縮性と他職位とのオーバーラップが持たれている。いわゆる、上司が「1」といったら、従業員は「2」もやって、「3」までやったら評価されるということだが、中国の人事現場では、これで頭を抱える日本人上司が多いようだ。この日本流と米国流の差異にはすでに多くの専門家が目をつけ、問題点を指摘している。

 もうひとつ。中国の労働法令の実情だ。労働契約上の職務内容の変更は、労働者の同意と原則書面の署名エビデンスが必要である。つまり、秘書業務に書類管理と総経理スケジュール管理が記載されているが、では、お客さんのお茶出しはどうなの?お茶ならいいが、コーヒーは?コーヒーを出すといっているのだから、コーヒーを淹れる仕事は?終わったコーヒーカップの撤去は?・・・。極端な話をしているようだが、現実問題として存在している。

 中国は米国流の契約社会だから、米国流に処理していいのだろうか。米中間の本質的な違いを見落としてはならない。

 アメリカの場合、デーヴィットさんの仕事は、A、B、Cで、ボスがDもやってよといったら、デーヴィットさんは、「ノー」と拒否する。そこで、ボスはどうしますか。アメリカは自由解雇の社会だから、解雇という最大な調整弁がある。だが、中国にはこのようなものは存在しない。

 張さんの仕事は、A、B、Cで、総経理がDもやってよといったら、張さんは、「ノー」と拒否する。そこでクビを切れますか?明らかに「ノー」だ。いや、逆に、張さんから言ってくるかもしれない。「老板、私のクビを切ってください。賠償金さえ払ってくれれば、クビ切られるまでもなく、私は自分でちゃんと辞めますよ」

 こういう感じだから、賃金や職位、職務の制度については米式も日式も問題があり、中式しかないのである。私はこの中式制度の造成と改良に多大な情熱をかけ、そして今日も懸命に取り組んでいる。