本物の反日とは?中国人の「反日」と日本人の「反日」

 反日デモで驚くことは何もない。それよりも、一部日系メディアの報道を見て失笑する。口々「反日感情」というが、中国人は果たして反日感情を持っているのだろうか?

 そのロジックでいくと、反日感情があっての反日デモ、反日デモがいよいよ一部暴徒化したところ、反日感情が脱線することになる。そもそも、参加者にどのくらい本物の反日者がいるのか?中国語の情報サイトを見ると、反日デモがロレックスやディオールの店舗を襲撃するような情報も流れているが、それが事実であれば、反日デモの脱線よりも、盗賊が反日デモの美名を悪用しているとしか思えない。

 「反日」は、立派な政治観点・立場の表明だ。日本人として、心地よくないが、でも、このような真摯な観点と立場の表明を最大限に尊重したい。「デモ」も公民の権利である以上、順法の元で行われるものを最大限に尊重すべきだと考える。肝心なことは、「反日」と「デモ」の定義づけなのである。

 世の中は、「反日」よりも、「反米」が目立っている。飛行機をハイジャックしてニューヨークの高層ビルに突っ込んだり、先日リビアであったような米国大使殺害事件だったり、あれは正真正銘で本物の「反米」だ。テロ行為は非難すべきものだ。一方、自らの命を落とすまで観点の表明をしようとする行動は、単なる盗賊や暴徒と次元が違う。

 中国には、飛行機をハイジャックして、東京都庁ビルに突っ込んで石原都知事を殺害するような反日者はいるのだろうか。不買運動を呼びかける人間自身、日系製品を一つも使っていない者は何人いるのだろうか。

 そういう意味で考えると、中国の「反日」はマグニチュード3やせいぜい4あたりではないか。激震にはいたっていない。だからといって、建築物の防振構造を怠ってはならない。やたら、「日中友好」や「架け橋」を口にする人もいるようだが、なんだかそういう政治的スローガンよりも実務と効率性を考えると、私はいつも言っている――。「橋」よりも「渡舟」がいい。地震で橋が崩れ落ちても、船は助かる。必要な時だけ船を出動すればいい。

 日本のメディアが問題で、物事の本質を洞察する力が乏しい。編集方針かもしれない。本物のジャーナリストが出世できるようなメディアにしないと、愚民政策大国、日本は間違いなく衰退する。

 日本と中国の間に、本物の友好もなければ、本物の喧嘩もないと私は見ている。いや、むしろ定期的に喧嘩はしたほうがいいだろう。夫婦喧嘩は仲のいいうち。喧嘩すれば、皿の一枚や二枚を割ったりするから、経済への影響は多少出るだろう。中国に出てきた以上、これくらいのリスクは企業の経営計画に折り込まないと、経営者失格だ。コンティンジェンシー・プランといって、いざというときのプランBが絶対に必要だ。

 日本料理店が壊される程度なら、そのままにしておけば、政府が親切に直してくれるかもしれない。2005年の反日デモで壊された日本料理店が、後日「観光名所」になって大繁盛したとか。まあ、何とかなるだろう。

 一言、平常心。しばらくすると、何事もなかったかのようになるだろう。そして、次、また騒ぐ・・・こんな感じ。

 ここ2~3日、中国語サイト、書き込みを見ているのだが、2005年当日の反日デモよりも、冷静的で客観的な書き込みがずいぶん増えた。中国国民は成長している。とても喜ばしいことだ。その分、日本人も成長しないと。

 「日中友好」よりも、「日中円満」が現実的だ。

 日本のテレビをつけてみると、東京での街頭インタビューで、「中国人の対日感情」云々一色だった。

 「対日感情」という設問自身の正当性と的確性に、大きな問題があることはすでに指摘したとおりだ。「反日デモ」から「反日感情」へと、遡っての因果関係の逆推理に着目してほしい。

 「反日デモ」とは、「反日」と「デモ」の2要素構成。その構成要素の真正性を検証すると、まず、「デモ」は紛れもなく、客観的に存在する事実だ。次に、「反日」は主観的意図であり、確認する必要がある。ここで新たな設問は、「1万人の反日デモ参加者、その1万人はすべて反日者か?」

 たとえば、非日系の商業施設ないし中国人の私有財産を破壊したり、商品や財物を窃盗したり、中国人にまで加害したりすることになれば、明らかに「反日」という主観的意図が否定されることになる。

 皆さん、もう気づいただろうか。決定的な設問になる――。

 「反日」と「デモ」、どっちが目的?どっちが手段。二つの回答がある。「反日目的・デモ手段」、「反日手段・デモ目的」。

 つまり、「反日のためにデモする」のか、それとも、「デモのために反日する」のか?これを見極める決定的な論証を飛び越えて、前者結果ありきの設問で「反日感情」を論ずるのは、意味があるのだろうか。日本の街頭インタビューにあたるTV局の担当者と市民を見ていると、思わず悲しくなる。いや、怒りさえ覚える。

 日本国内の問題がここまで大きくなると、日本政府に対する苛立ちや不満、どちらかというと、中国国民よりも、直接に被害者となっている日本国民のほうがはるかに「反日」感情をもっているのではないだろうか。

 国民の目線をそらすのが政治家の常套手段だ。それを実現するために、国民にいわゆる正解たるものを押し付け、ひいては真の批判的思考力を奪う。教育やメディアの機能低下、戦後の日本は一貫して愚民政策の影が付きまとう。

 中国人の反日よりも、日本人の「反日」を恐れているのが日本の政治家ではないか。立脚点と目線を少しずらせば、まったく異なる景色が見えてくるものだ。

 ちなみに、中国の学者や一部のメディアは、最近「反日デモ」の代わりに、「渉日デモ」と称している――「日本に係わるデモ」。日本のメディアは反応が遅い。そろそろ名称変更したほうが良さそうだ。

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