<雑論>民主主義による独裁 / 石破首相とトランプ大統領 / 「人柄がよさそう」な政治家

● 民主主義による独裁

 民主主義を「普遍的価値観」として他者に押し付ける行為は、民主主義が本来持つ「多様性」や「選択の自由」といった理念と矛盾する。「普遍的」つまり「唯一の正解」として扱われる瞬間に、他の価値観やシステムを排除することにつながる。

 民主主義自体が「選択の自由」を重視する理念を持ちながら、それを絶対化して他国や他文化に適用しようとする行為は、ある種の独裁的な姿勢である。民主主義を押し付ける側が「多様性」を主張する一方で、異なる価値観や政治体制を許容しない態度を取るのは自己矛盾にほかならない。

 民主主義と独裁権威の二元論に陥ると、それぞれの長所や短所を冷静に分析し、議論する余地が失われる。シンガポールのような準独裁的な体制が成功を収めている。

 中国もまた然り。独裁制度は必ずしも民主主義を否定するものではなく、むしろ民主主義と併存できる可能性を示している。それに対して、民主主義が「独裁を抹殺」しようとする姿勢を取るならば、それ自体が独裁的であり、多様性を認める民主主義の理念と矛盾することになる。

 多様性を本当に尊重するのであれば、民主主義の枠内だけでなく、独裁やその他の体制からも謙虚に学び取るべき点があるはずである。多様性を認める寛容さとは、自分の信念に固執するのではなく、異なる価値観や制度にも耳を傾け、そこから学ぶ姿勢を持つことではないだろうか。しかし、民主主義はその余裕を失っているように見える。

 トランプは違う。彼はまず「民主主義」という言葉を普段からほとんど口にしない。「普遍的価値観」も言わない。中国と米国の利益争奪戦では、中国を敵視しつつも、統治者としての習近平をトランプは評価している。これこそ帝王学の真髄である。これに対して、習近平といえば、独裁者だと、彼が何をやっても批判する。そうした民主主義国家の頓馬どももそろそろ理性を取り戻したらどうだろうか。

● 石破首相とトランプ大統領

 鳩山由紀夫元首相が1月22日、自身のX(旧ツイッター)でこう語った。「トランプが日米地位協定改定などと言っていた石破首相を好んでいないことはよく分かる。それは逆に良いのだ。だから石破首相は日米同盟強化などと言うのでなく、思いやり予算、防衛費増額要求にNOと言うべきだ。」と。

 先日私の投稿と全く同じことを言っている。石破首相が安倍氏と違って「Japan First」、トランプの「America First」号令に従わないため、トランプに嫌われる。だから、良いのだ。石破氏が安倍氏よりも愛国者であり、保守の真髄を実践している。この基本的なところも理解できないのは、偽保守の頓馬たちである。

 私は国益第一主義。日本の国益に合致する政策であれば、誰であれ、提唱者が何党であれ、たとえ日本共産党であっても、その政策を支持する。「誰」よりも、「何」を見る。これこそ、本物の保守愛国者である、と思っている。

 そういう意味で、「America First」のトランプも、「China First」の習近平も、「Russia First」のプーチンも、そして「Japan First」の石破首相も、私は、為すべきことを為している指導者たちの全員を尊敬している。美辞麗句を言わず、世間にどう見られるかを気にせず、ただひたすら為すべきことを為している、それだけである。

● 「人柄がよさそう」な政治家

 日本人がよく「人柄がよさそう」で政治家を選ぶ。なぜかというと、人柄の良さから信頼感を得られ、信頼できる人物であれば一任しても問題ないと考えるからだ。その背後には「政治を学びたくない」「政治に関与したくない」「政策の良し悪しを判断する力がない」といった姿勢が隠れており、結果的に政治を丸投げする怠惰に基づいている。

 そのため、いざ政治家が期待通りの成果を出せなかったり、不祥事を起こしたりすると、有権者は「裏切られた」と被害者のような態度をとり、批判を始める。民主主義とは、選挙や政治の結果には有権者自身も責任を負うべきだ。「任せたから自分には責任がない」という態度は、自らの役割を放棄する行為に等しい。無責任極まりない愚民というわけだ。

 福沢諭吉いわく「西洋の諺に『愚民の上に苛き政府あり』とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」(『学問のすすめ』)。まさにこのような無責任な愚民を批判しているのである。

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