● 記号の襟元、バッジ政治が示す知性の劣化
政治家の襟元が賑やかである。リボンバッジ、政党章、花章、支援団体のシンボル……。一見すれば、意思と信念の表明であるかのように見えるが、実態はむしろ「主張なき主張」である。言葉による論戦を避け、記号による立場のマーケティングが横行している。そこにあるのは、思考ではなく「好感度調整」の政治である。

政治の場面において、言葉はどんどん省略され、色や形の符号へと還元されていく。その理由は単純明快である。大衆が複雑な議論を理解できないからである。認識力を超える複雑さに直面したとき、大衆は色・バッジ・スローガンといった視覚的記号にすがる。政治家はそれを熟知しており、記号を纏うことで「敵か味方か」を大衆に即時判別させる。こうして政治の複雑性は削ぎ落とされ、二元論の劇場が演出される。
現実の社会問題は常にグラデーションの中にある。善と悪、自由と秩序、福祉と財政――すべては連続体である。しかし、記号化された政治はそれを許容しない。青か赤か、賛成か反対か、リベラルか保守か。そうした二項対立の世界に民衆を閉じ込めることで、思考停止を誘導し、管理しやすい集団心理を形成するのである。
記号で政治を語る者は、記号で評価されることを望む。そして、記号を認識するだけの政治参加者は、複雑さを拒絶し、単純さに安心する存在である。ここにおいて、政治はもはや政策の競争ではなく、「記号の装飾合戦」となる。そして、そこからこぼれ落ちるのは、言葉による熟慮、対話による妥協、知性による共通基盤である。
記号は言葉を省略し、思考を代行する装置である。便利であるがゆえに危険でもある。この「襟元の記号化」現象は、現代政治の知的退行を象徴する現象として、もっと真剣に分析されねばならない。民主主義が愚民主義へと堕落するその兆しは、すでに襟元に表れているのである。
● 愚民と劇場
○ スキャンダル政治の正体
現代政治において、スキャンダルは娯楽であり、消費コンテンツである。学歴詐称の次は、不倫。ワンパターンである。しかし、よく考えてみるべきだ。不倫にはそもそも「力」が要る。財力、権力、魅力、知力、胆力――そのいずれか、あるいは複数を兼ね備えていなければ、そもそも相手は寄ってこない。不倫者への批判は、しばしば「倫理」の仮面をかぶっているが、その多くは、自分には不倫できるほどの力も魅力もないという、嫉妬と怨嗟の裏返しである。
「けしからん!」と拳を振り上げる者の内面には、「なぜあいつだけ」と呟く小さな自我が潜んでいる。不倫を正当化する気はない。だが、「不倫すらできない者」による「正義の鉄槌」ほど滑稽なものもない。ここでもまた、愚民の集団的嫉妬がSNSの燃料となり、炎上商人たちの収益を生み出していく。
○ 空疎な「反中」と空白の政策
中国出身・元共産党員・石平氏が帰化して日本で政界進出を目指す。だが、そこにあるのは「反中」というワンイシューだけである。経済音痴、財政・税制・少子化・外国人労働といった多岐の政策はほぼ白紙。対中経済依存の高い日本において、単なる反中感情で国家運営ができるはずもない。本当に日本を愛するのであれば、もっと深く日本社会を学び、地に足のついた政策提言をするべきである。反中だけで人気を取ろうとするその姿勢は、劇場における「悪役」を演じる役者と変わらない。
○ 政治とは何か――政策なき民主主義
本物の「政治」とは、「政党」でも「政治家」でもない。「政策」である。だが今や、大衆は政策論に耳を傾けない。彼らが注目するのは政党名や顔立ち、スローガン、バズワードといった「符号的事象」に過ぎない。なぜなら、彼らには本質を理解する力がないからである。わからぬことに口出しすべきではない。しかし民主主義制度とは、馬鹿でも一票。つまり、集団無免許運転である。賢者はハンドルを握らず、群集がアクセルとハンドルを握り、崖へと突き進む。
○ 政治という「治療」を拒否する患者たち
選挙とは何か。答えは単純である――税金の無駄遣いである。何党が勝っても、日本は変わらない。いや、悪化するのみである。なぜなら、日本人自身が変わらないからだ。選挙で医者を選んだところで、肝心の患者が治療を拒否している限り、病は治らない。痛み止めとサプリメントを要求するだけで、手術やリハビリを拒む患者に、快癒などあるはずがない。
○ 投票しないという「政治的関与」
私は投票しないし、選挙にも興味がない。しかしそれは無関心ゆえではない。むしろ、私は選挙を観察対象として見る。人間心理の観察対象である。群集心理、認知バイアス、集団同調、権威への服従、マーケティング戦略――選挙は極めて優れた心理実験の場である。私が投票しない理由は、一人一票の制度そのものに反対しているからである。民度の低い社会における平等な一票は、知性の否定である。投票しないことこそが、冷静で知的な「政治的関与」のひとつの形であると、私は考える。
○ 民主主義という劇場
民主主義は、劇場である。著名人、俳優、格闘家、漫画家が立候補。役者、劇団、観客、脚本家、スポンサー、集客マーケター。つまり、民主主義とは一大産業化された演出空間である。私はこの舞台に加担しない。投票所には行かない。私はギリシアの哲人たちに一票を投じる。彼らの思索こそが、劇場の外から「政治とは何か」を問い直す最後の砦である。
○ 選挙のメカニズム
怖いのは、政治に無関心で投票しない人たちではない。
怖いのは、政治に無知で投票する人たちだ。
みんなが「候補者」を見ているが、私は「選挙民」を見ている。愚かな民が賢い政治家を選ぶことはできない。だが、賢い政治家は愚かな民に「ウケる」演技ができる。選挙結果は候補者の優劣を映すものではない。有権者の民度を映す鏡である。選挙は政治の問題ではなく、社会の知性そのものの問題である。
『学問のすすめ』福沢諭吉ーー西洋の諺に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。
○ 街宣のパターン化
街宣をパターン化すると、概ね以下の通りだ。
1、国民の皆さん、生活苦しいですよね。
↓
2、それは○○XXのせいです。
↓
3、だから○○XXの自民党にNOを突きつけよう(俺様へ投票しろ)
この三段論法は論理の飛躍であることに大衆は気づかない。街宣三段論法の構造分析:
ステップ1:「共感」~国民の皆さん、生活苦しいですよね。→ ここで「聴衆との共通感覚」を作る。事実かどうかはさておき、「そうそう」と思わせる。
ステップ2:「スケープゴート」~それは○○XXのせいです。→ 「原因」を単純化して提示する(誰か/何かのせいにする)。例:増税、外国人、財務省、自民党、経団連、中国など。
ステップ3:「唯一の正義」~だから○○XXの自民党にNOを突きつけよう(俺様に投票を)。→ 怒りの矛先を投票行動に誘導。因果の飛躍と代替案の欠如がここで露呈。
なぜ大衆はこの詭弁に気づかないのか?
感情優先: 論理より「怒り」「不安」の方が脳を支配しやすい。
因果の単純化: 「生活が苦しい→○○のせい」は、考えなくて済む。
情報弱者の増加: 複雑な政策や構造的要因を理解できない/しようとしない。
この三段論法は、大衆の知性を前提にしていない。むしろ、知性の欠如を利用して票を稼ぐためのテンプレートであり、それを見抜ける層はごくごく少数派にとどまる。「政策で勝負する政治家は淘汰され、感情を煽る役者が選ばれる」。民主主義の矛盾は、この街宣三段論法に見事に凝縮されている。
大衆煽動の構造は、ヒトラー時代から変わっていない。大衆が愚民であることが変わっていないからだ。
○ 愚者と賢者の構図
選挙で選ばれるのは、愚者ではない。愚者に選ばれた、愚者を食い物にする賢者である。ソクラテスは「無知を自覚せよ」と言い、プラトンは「民衆に媚びる快楽提供者こそ危険」と喝破した。そしてマキアヴェッリは、「統治者は愛されるより恐れられるべきだ」と断じた。今日の選挙で最も成功する候補者とは、有権者の知性を最も低く見積もった者である。だが、有権者たちはそれに拍手喝采を送る。「いい演技だった」と。滑稽である。あまりにも滑稽である。
○ 日本人の「痛み」が足りない
日本は変わらない。百回選挙をやっても変わらない。なぜなら、日本人の「痛み」が足りないからだ。「苦痛」という言葉があって、現段階の日本人はまだ「苦」にとどまり、「痛」に至っていないからだ。太平洋戦争では、日本人は「苦」から「痛」、そして「激痛」に至り、最後に「死」を迎えたところで、焦土からの再生を果たした。
「苦」は訴えられるが、「痛」は沈黙の中でしか現れない。だから日本は変わらない。変われない。日本が変わる時、それは希望によってではなく、絶望によってである。苦しみが痛みに変わるとき、はじめて再生が始まる。しかし、今の日本人は「苦」の責任を他者に転嫁する段階に留まっている。変革まではまだ先が長い。
○ ガス抜き選挙
今回の選挙は、戦後最大規模の「ガス抜き選挙」と名付けたい。大衆の生活苦、閉塞感、不安などの責任を、大衆自身以外の与党、外国、グローバリズムに転嫁する。これだけは共通している。
「有権者の皆さん、我々日本国は民主主義国家である以上、あらゆる責任は最終的に我々国民一人ひとりが取らなければなりません。まず自省から始めましょう。変革は痛みを伴います。皆さんは痛みを引き受ける用意はできてますか」
私が候補者なら、駅前でこう叫ぶだろう。そこで「帰れ」の怒号に見舞われるだろう。故に、大衆には責任がない。民主主義は無責任社会であり、選挙は責任転嫁、ガス抜きのエンタメ、イベントである。
○ 生活の改善は?
投票で、生活が良くなったのか?いいえ、悪化するのみ。それでも、期待を込めて投票所に足を運ぶ。それは大衆である。民主主義で本当に「主人」になったつもりだ。馬鹿な妄想だ。世界や国家の主人は、お金持ちでしかなれない。世の中は、ごく少数の人が大多数の人を支配し、搾取する構造は1万年経っても変わらない。自然の摂理である。帝王学という学問。大衆には死ぬまで接することがない。お気の毒だ。
○ 「心の拠り所」も商品である
参政党は政党というよりも宗教に近い性質を有している。すなわち、制度上は政党の体裁をとりながらも、実態としては精神的な教義、強固な世界観、共同体的帰属意識を提供する信仰装置として機能している。そこで提供されるのは政策というより「安心」であり、正義の物語であり、敵と味方を分かつ明確な構図である。これらは社会的混乱や不安に直面した人々の心のよりどころとなり、政治的ガス抜きの役割を果たす。
その上で、講演会のチケット販売やグッズの売買といった商業行為が付随するのは、宗教におけるお布施や参拝料と本質的に異ならない。精神的慰めや共同体意識の対価として、一定の金銭的交換が生じるのはごく自然なことであり、「心の拠り所なら無償であるべきだ」とする考えは、むしろ近代的二元論の囚われである。神聖なものと世俗的なものを分断する観念こそが、実態の理解を妨げている。
したがって、「政治集会でチケットを売るのは心の拠り所として解し難い」という批判は、宗教と市場が結びつくという現実を直視できていないに過ぎない。現代において、心の拠り所は商品であり、政治もまた消費の対象である。参政党はこの構造を巧みに利用し、商品化された信仰の形式で支持を獲得しているにすぎないのである。
● 「ねじれ政権」は好都合
好機だ。石破氏にとって、参議院における与党過半数割れ、すなわち「ねじれ国会」の状況は、一般的な政権にとっての制約ではなく、むしろ戦略的好機となりうる。石破氏は自民党内において主流派から常に距離を置き、派閥的支持も限定的であり、党内調整型の政権運営には本来的に不向きな存在である。
そのため、ねじれ国会という状況は、党内の支持ではなく、国会全体――特に野党との部分的合意――を通じて政策を前に進める「国会連立型」統治への転換を可能にする。石破氏は、従来の自民党総理とは異なり、党内に根を張るよりも、世論への直接訴求によって立場を築いてきた。ゆえに、野党の一部と合意形成を図りながら、「自民党主流派に嫌われる首相」としての立場を、むしろ国民的正統性へと変換する可能性を持つ。
加えて、石破氏の政策領域は防衛・安全保障においては保守的であるが、農政・地方行政・官僚制度改革においてはリベラルや中道と接点を持ちやすく、国民民主党や維新の会といった中道路線の野党とは政策連携の余地が大きい。これにより、与野党をまたぐ超党派的な立法過程を主導する首相像を描くことができる。
党内の派閥抗争に煩わされることなく、政策内容によって直接的に国民に語りかけ、賛同を得るというスタイルは、石破氏の持つ政治的キャラクターと極めて親和的である。すなわち、「ねじれ」は政権にとってのリスクではなく、石破個人にとっては「党内支配からの解放装置」として機能しうる。
このようにして、石破氏は「与党に支えられた首相」ではなく、「国民と野党の一部によって動かされる異形の首相」として登場する可能性がある。それは戦後自民党政治の構造に対する重大な逸脱であり、同時に、日本政治の構造的刷新を図るためのひとつの劇薬ともなりうる。
● 理解されない言葉と政治の構造
「何を言いたいか、わからない」――私の投稿がSNSでシェアされた先で、最も多く見られるコメントである。
だから私は、政治家になれない。否、なるべきではない。政治家にとって不可欠なのは、「わかりやすさ」であり、「刺さる言葉」であり、「群衆の符号認識」に適合する表現である。いかに中身が空洞でも、耳心地の良い言葉で、記号のパッケージにして売り出すことができれば、それで票は取れる。マーケティングのキャッチフレーズである。だが、その手法に私は加担したくない。
理解されない言葉を書くことは、伝えることの放棄ではない。それは、「容易に理解されること」への拒絶であり、「わかりやすさという媚び」への抵抗である。
この世には、努力なしには理解できないことが確かに存在する。研鑽も読解も咀嚼も要せず、ただの受信で済む情報だけが流通し、評価され、消費される世界。その中で、「わかりにくい」とされる言葉は、淘汰される。だから、私は淘汰される側の者である。だが、それを恥とも敗北とも思わない。
政治とは、票を得るために「知性を削る作業」であり、分かりやすさという刃で、自らの言葉を切り刻む作業である。最終的に残るのは、スローガンとイメージ、色と記号、敵味方の単純な構図である。そこに思索の余地はない。
「何を言いたいか、わからない」――その言葉が示すのは、発信者の失敗ではなく、受信者の思考の放棄かもしれない。私はそれを断罪する気はない。だが、迎合する気もない。
思考なき理解に未来はなく、理解なき思考には孤独が待つ。私は後者を選ぶ。たとえ誰にも届かなくても。
● 食料自給率100%にする
参政党は「食料自給率100%にする」と言っている。これを本気で実現するための条件とは?
条件1、輸入農産物の全面禁輸
外食・加工食品業界、サービス業界に崩壊的打撃。
小麦・大豆・トウモロコシ・果物・油脂の輸入停止により、食の多様性は消滅。
条件2、食構成の強制的変更
パン・パスタ・牛肉・乳製品・油脂類を大幅に削減。
米・イモ・野菜中心の食生活、たまに魚・卵。戦時中レベルへの逆行。
条件3、職業選択の制限・農業転業の強制
都市住民の農村への強制移住と農地配分。
憲法「職業選択の自由」の停止=憲法改正が前提となる。
条件4、全国民への「食糧生産ノルマ」制度
高齢者・病人・海外在住者を除く全国民に作物生産の義務を課す。
未達成者には制裁措置も。まさに「農業徴兵制」。
条件5、農業従事者の特権化・都市部への課税強化
農家の所得税を全面免除し、強制報酬相場を国家が定める。
都市部住民には増税と生活物資の供出義務が課される可能性。
条件6、国土利用と都市政策の根本的見直し
農地優先による土地利用の再編、都市部の縮小。
国家主導の計画経済への移行を意味する。
条件7、国際貿易・外交摩擦の受容
食料輸入を禁じることでWTO違反・FTA破棄となり、
外交的孤立、報復関税、経済制裁などのリスクを抱える。
参政党の「食料自給率100%」は、国民の自由・経済活動・国際関係を全面的に犠牲にすれば実現可能。だがそれは、戦時統制国家への移行宣言に等しい。現実的な「食料安全保障」の議論とは、まったく次元が異なる話である。
● 選択的夫婦別姓
「選択的夫婦別姓」はなぜこんなにもめているのだろう。私の提案は、「通称禁止+選択自由化+一人一氏名」である。
1. 通称の使用を禁止(法的氏名の一本化)
現状、通称使用が黙認されているが、これは戸籍名と実名が乖離する状態を生み、行政手続きや法的効力に支障をきたす要因になる。通称を廃止し、公的・私的を問わず「法的氏名一本」にすることで、混乱を防げる。
2. 婚姻時に姓を自由に選択可能
夫婦どちらの姓を選んでも良い現行制度に加え、夫婦それぞれが自身の姓を維持することも認める。すなわち「選択的別姓」も可能とする。
3. ただし、一人一氏名の原則は厳守
同時に複数の法的氏名を持つことは不可とし、法的手続き上の混乱や二重身分のリスクを防ぐ。結婚しても、自分の氏名を法的に維持できる選択肢を与えるが、それは一人一つの法的氏名に限定される。




