世の中の支持率というものは、つくづく気象のようなものだと思う。晴れたり曇ったり、嵐になったり、同じ首相でも出来事ひとつで数字は乱高下する。
だが私の場合、一人の首相に対する評価は任期の初めから終わりまで変わらない。例えば、ここ数年でいえば石破前首相だけは一貫して支持していた。多くの人は、その時々の出来事に反応して支持・不支持を決める。物価が上がれば怒り、外交で握手をすれば喜び、スキャンダルが出れば背を向ける。つまり支持の基準が出来事や感情にあり、構造ではない。
だから支持率は風のように動く。私はそういう短期的な風に興味がない。私が見るのは、その政治家が持つ国家観、権力観、そして統治哲学である。言い換えれば、思想の構造だ。短期の人気や演出よりも、長期にわたって一貫した理性と誠実さを保てるかどうかを基準にしている。
だから、一度信じた人物の評価は任期を通じて不変となる。石破氏を支持していたのは、彼が派手さを欠いても、国家をどう見るかという視点が常にぶれていなかったからである。多くの政治家が世論や派閥に流される中で、彼だけは言葉の裏に構造的誠実さを持っていた。結局、国民の多くが気分で政治を語り、私は構造で政治を読む。その違いが、支持率の乱高下と私の不変の評価との分岐点なのだと思う。
ここで言う未成熟とは、思考や判断の自立を放棄し、集団や権威に同調する傾向を指す。戦後教育は「平等」や「権利」を唱えながらも、実際には「考える力」を育てることを意図的に放棄した。結果として、個人は自由を与えられながらも、自由を使いこなす知的筋肉を持たない。これは幼児化した自由であり、他律的な民が空気に従って動く構造を生んだ。自由を望むと言いながら自由を恐れ、選挙で権力者を選びながらその責任を放棄する。彼らにとって民主主義とは主権ではなく免罪である。「みんなで決めた」ことによって、誰も責任を取らなくてよい体制――それが日本型民主主義の実像である。
一方、制度としての民主主義は異常なまでに発達した。選挙、メディア、SNSによる瞬間的民意の反映が、成熟の証と誤解されている。しかし制度が洗練されるほど、内容――すなわち「判断する主体としての国民」――は空洞化する。「自由」「平等」「人権」という言葉は理念ではなく呪文となり、それに疑義を呈すること自体が“反民主的”とされる。こうして民主主義は手段ではなく目的に昇格し、宗教化する。信じることが第一義となり、考えることが背信とされる。結果として、民主主義は形式だけが肥大し、理念的には老化している。
未成熟な民と過成熟な制度、この二つは対立せず、相互に依存している。思考停止した国民が「多数決」や「民意」という免罪符を振りかざし、制度の過成熟を正当化する。制度の側はその幼児性を温存し、増長させる。ここに相互促進の循環がある。その果てに生まれるのが、感情と空気に支配された「民主的権威主義国家」である。見た目は自由で開かれているが、実態は同調専制。政治家は民意を恐れ、民は政治家に依存し、メディアは両者を快感で結ぶ装置となる。つまり国家全体が「成熟を拒否する快楽共同体」と化している。未成熟な民が老衰した制度を支える――この倒錯的なエコシステムこそ、現代日本の民主主義である。
いま日本では、自由は自由の形をしていない。人々は自由に発言できるが、自由に思考することは許されない。思考し異見を発する者は「共感しない者」とされ、共感しない者は「非国民」とされる。強制ではなく同意によって人が縛られる――これが民主主義の末期症状である。制度は形式的理性の極限まで進み、精神は感情と依存の沼に沈んでいる。その乖離こそが社会を静かに腐食させている。
では、どうすればよいのか。必要なのは、私たち一人ひとりが自分の頭で考えることだけである。河合隼雄が言うように意識と無意識を統合し、丸山眞男が説いたように他律ではなく自律の倫理を持つこと。民主主義とは制度ではなく成熟の訓練であり、理性をもって自由を生きる民が現れるとき、ようやく制度は魂を取り戻すだろう。





