【世界経済評論IMPACT】現代民主主義の全体主義化、毛沢東も真っ青な「文化大革命2.0」

<前回>

 プーチンがこう語った――。

 「現代社会では、価値観や意味づけをする空間は、激しい競争に晒されています。人の頭にいかに影響を及ぼすかをめぐり、激しい、アグレッシブな戦いが進行しています。伝統的な価値観は古臭い、廃れたと決めつけられる一方で、押しつけらているのが、いわゆるネオリベラリズム的価値観です。ところがこの実際の中身は、全体主義的なモデルなのです。しかもこれは、西側諸国の多くでしつこく導入されているだけではなく、積極的に全世界に輸出され、押し付けられている」

● ナラティブから生まれる全体主義

 値観や意味づけをする空間とは、単なる言葉のやり取りの場ではない。それは、「ナラティブ」の構築空間であり、何を善とし、何を悪と見なすか、その「基準」を形成する無形の戦場である。そしてこの戦場では、最も巧妙な武器は暴力ではなく、美辞麗句である。「自由」「人権」「民主主義」「多様性」といった正義の語彙は、最初から「反論しにくい言葉」として設計されている。だからこそ、それが一度「常識」として人々の思考に埋め込まれた瞬間、それに異議を唱える者は、道徳的に劣った者、社会不適合者として排除される。

 このとき、ナラティブは単なる物語ではなく、思考と認識の枠組みそのものとなる。そしてその枠組みの外に出ようとする者は、言葉を持たない。なぜなら、彼らの語彙はすでに「旧時代的」「非人道的」とレッテルを貼られ、議論の対象から外されているからである。こうして、「唯一の正しさ」が生まれる。誰もが切っても切っても同じ主張を繰り返す。まるで金太郎飴のように、あらゆる表情が同一の「正解」に回収されていく。

 だが、この状態こそが、全体主義である。銃剣によってではなく、正論によって支配される全体主義。伝統的な価値観はまず「時代遅れ」として退場させられ、新たな価値観が「進歩」や「啓蒙」の名の下に導入される。しかしそれは、多様性を謳いながら、実際には唯一のナラティブしか許さない。「多様性の名による画一性」こそ、最も洗練された支配形態なのである。

 そして、この支配は見えにくい。なぜなら、誰もが「善意」でこれを信じ、疑うことが悪であると教えられてきたからだ。人々が「正しい言葉」しか使わなくなった社会、それは制度による自由ではなく、制度そのものが自由を定義してしまった世界である。

● 文化大革命のリブート

 毛沢東が発動した文化大革命とは、表面的には「四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)」を打破し、新しい社会を築くための運動であった。しかしその実態は、伝統を「敵」と定義し、過去を全面否定することで、唯一の正義を制度化するプロセスであった。

 そして現代の西側社会、あるいは「ネオリベラル的価値観」を中核とする新しいナラティブ空間においても、極めてよく似た現象が起きている。ここでも「四旧」に該当するものがある――それは、旧来の性別観(ジェンダー二元論)、伝統的家族像、国家主権の概念、宗教的・民族的価値観、こうしたものは、「差別的」「非科学的」「非合理的」「保守的」といったレッテルで排除され、新しい「正義」と入れ替えられる。その正義とは、自由、平等、ジェンダー平等、脱炭素、人権などで構成された「新時代の価値のパッケージ」である。

 しかし、問題はその内容そのものではなく、排他性のあり方にある。それに異議を唱えれば、あなたは「差別主義者」「陰謀論者」「極右」とされ、言論の土俵にすら上がれない。まさに、文化大革命で紅衛兵たちが「反革命分子」「走資派」と決めつけた者に対し行った糾弾と同じ構造である。

 毛沢東は伝統文化を否定したのではない。自らが新たな「正義」を定義するために、伝統という「意味づけの秩序」をいったん空白にしたのである。それは、価値の基準を更新するための破壊行為であり、「思想の所有権」を国家が奪い返すための暴力だった。

 いま我々が目にしている「正義の輸出」もまた、伝統的価値の「撤去」を前提とした、新しい意味秩序の「植民」である。かつては紅衛兵がそれを担った。今では教育機関、メディア、NGO、そしてSNSがその役割を果たしている。それが暴力的に見えないのは、方法が身体から精神へと移行したからにすぎない。

 今日の「紅衛兵」たちは、石を投げたり拳を振るう代わりに、リツイートとキャンセルによって異端者を追放するのである。

● 過去を否定する者は、未来を所有する

 文化大革命の恐ろしさは、単に伝統を壊したことではない。それによって、「未来の価値」を一元的に定義する権利を獲得した者たちがいたことにある。

 現代社会もまた、「民主」「自由」「多様性」といった正義を掲げることによって、「何を善とし、何を語ってよいか」の基準を特定の方向に集約しようとしている。制度の名の下に異論が排除されるこの構造は、文化大革命の精神的再来であり、しかもはるかに洗練された形で再演されている。

 この意味において、我々が直面しているのは「民主主義の危機」ではない。「自由の名を借りた全体主義」の確立という歴史の新段階である。

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