● AIにおける日中比較
中国は、大量失業を覚悟のうえで、AIやロボットの開発・導入を国家主導で猛烈に推進している。背景には、人件費の上昇や若年人口の減少、そして何よりも国際競争における技術覇権の確保という国家的野心がある。
一方、日本は雇用の安定や労働者の保護を優先し、技術導入には慎重な姿勢を崩さない。とりわけ中高年層の雇用維持や熟練技能の継承といった課題が、自動化のブレーキとなっている。
短期的には、日本の方が社会の安定を保っているように見えるが、中期的には労働生産性の伸び悩みや競争力の低下が避けられない。長期的には、中国が自動化社会への適応に先行し、世界市場での主導権を握るだろう。
要するに、中国は「国家の富強」を優先し、日本は「国民の安定と尊厳」を重視するという、価値基盤の相違が根底にある。言い換えれば、すべては「評価基準」と「価値の置き方」の問題である。
中国は国家の評価軸を「先進性」や「強さ」に置き、技術開発や国際競争において一歩でも前に出ることを是とする。一方、日本は「後進性」や「弱者の保護」に価値を置き、社会的安定や共生を重視するあまり、変化や競争を抑制する方向へと傾く。
ここに決定的な差異がある。先進や強者の位置はごまかしが利かない。実力が伴わなければ、その地位はすぐに崩れる。だからこそ、そこに居続けるには不断の努力と革新が求められる。しかし、弱者や後進のふりは容易にできる。「守るべきものがある」「共生が大事だ」という美名のもとに、実は変化への怠惰や競争への忌避が隠れている。
そして、その状態が固定化されると、やがて本物の弱体化が始まる。かつて強者であった国が、自らを偽って弱者を演じ始めたとき、すでにその国家は衰退への道を歩んでいるのである。評価軸の選択は、国家の行く末を決定づける根源的な思想の問題である。
国益レベルでは、中国のほうが正しいと、私は信じている。
8割を助けるために、2割を切り捨てる。日本では、労働生産性の向上に伴って、全体の2割、すなわち3000万人規模の人を労働市場から整理すれば、国家財政も産業競争力も劇的に改善し、残された8000万人の日本人が豊かに生き残る道が開けるはずだ。にもかかわらず、誰もが善人を装い、「切り捨て」の議論を封じ込めることで、非効率な全体を抱え込み、国家と社会の共倒れが進行している。
国家を守るために3000万人を底辺に落とすことはやむを得ない――この冷徹な現実を、誰もが正面から語ろうとしない。

● 参政党は「宗教」なのか
『参政党は「宗教」なのか…初期の公明党との「驚きの類似点」があった』(2025年7月30日付『週刊現代』Online)。
「日本人ファースト」は「God bless you」とほとんど同じである。いずれも無害そうに響くが、内実は「思考停止の免罪符」である。政教分離は理念として掲げられても、「宗教というビジネスモデル」の次元では不可能だ。なぜなら、宗教とはそもそも、思考しない大衆を束ね、動員し、統治するための最も洗練されたプロパガンダ装置だからである。
この装置は、「ガス抜き」と「希望の再起動」という2つの機能を繰り返し発動しながら、現実の構造的問題を棚上げにする。結果、現実は変わらないか、むしろ悪化する。
ニーチェは言う――「力で世界を変えられない者は、解釈で世界を変える」と。彼岸(死後)では、悪は地獄へ堕ち、善は天国へ行く。そう信じ込ませることで、現世の地獄を温存し続ける。そして何よりの詐術は、「強者=悪」「弱者=善」という解釈のすり替えにある。構造的な支配や不正義が、その物語の中で倫理的正当性にすり替わる。
だが、此岸(現世)の天国と地獄の住人は、一歩も動かない。物語が変わっても、現実の階層は固定されたままなのだ。
● 似非保守のイデオロギー転嫁と経済的現実逃避
日本の本質的な問題は、イデオロギーではない。経済の衰退と、それに伴う生活の困窮こそが、人々の苦しみの根源である。
にもかかわらず、保守を標榜する勢力の多くは、「イデオロギー」に執着する。なぜか。実のところ、非富裕層にとって、自らの生活苦・貧困や経済的不安の原因をイデオロギー的な外部要因――たとえば外国人やリベラル政策――に転嫁することは、きわめて容易である。
その結果として形成される「保守層」は、原理的な思想や哲学に裏打ちされた保守ではない。ただの似非保守、つまり「保守という記号」にすがる思考停止の群像である。彼らは自らの知的怠慢ゆえに、もっともらしいスローガンに飛びつき、そこで思考を止めてしまう。
だからこそ、彼らは簡単に利用される。たとえ明日、外国人をすべて国外追放し、総理が靖国神社に参拝し、LGBT法を全廃し、夫婦同姓を義務化したところで、貧困層は相変わらず貧困であり、無知な者は依然として無知なままである。政治とは幻想を与える術にすぎないが、幻想に逃げる者は、永遠に現実から目を背けたままである。
● ジャパンアズナンバーワン
ジャパンアズナンバーワンーー80年代ブームの名著。今や、「日本人ファースト」の遠吠えにまで転落した。ナンバーワンなら自ずと「ファースト」の必要もない。その没落ぶりに、政治家のせい、中国のせい、グローバリズムのせい、と他責批判の嵐。「日本人自身のせい」という自省が全く見られない。人間は恒に失敗や不幸の責任を他者に転嫁する。当たり前だ。
民主主義の言論自由や投票制度で、さらに拍車がかかる。黙れ、日本人よ!反省せよ、と一喝する人間は当然叩かれる。そんな日本は中国の属国になるのも当然。中国は何をしなくていい。戦争など不要。お茶でも飲んで待っていれば、日本は自壊する。民主主義は、中国の味方。
● 運命と宿命
31年前の1994年、バブルの残り香がほのかに漂う日本を、私は妻とともに脱出した。先見の明ではなく、二十代後半の私には先を読む力はまだなかった。ただ栄枯盛衰の法則をぼんやりと感じただけで、退職金の200万円を元手に無謀な日本脱出を果たした。
31年後、ほぼ全ての自由を手にした私は、外野から祖国日本を眺め、失敗の本質に気づいた。しかしほとんどの日本人は気づかないというよりも、気付こうとさえしない。今日もまた一票で運命を変えようと妄想している。運命は変えられるが、宿命は変えられない。
変えられないものを受け入れる冷静さを、
変えられるものを変える勇気を、
そしてその二つを見分ける知恵を、
神よ、我に与えたまえ。
――ラインホルド・ニーバーの祈り
サラリーマン後期の私は、組織変革に挑んだ。現場の理不尽、制度の歪み、上司の鈍感さ――すべてを変えようと躍起になったが、結果は惨敗だった。そのとき、上司の上司にこう言われた。「立花君よ、組織は変えられない。変えられるのは君自身です」。これは忠告というより、選択の強制だった。すなわち、服従するか、離脱するか。私は後者を選んだ。組織を見限り、自分を変え、そして環境を変えた。
あれから31年。今の私は、「組織を変えること」そのものを生業にしている。コンサルタントとして数多くの企業に入り込み、制度をつくり、人を動かし、実際に変革を実現してきた。あのときの「敗北」に、ある種のリベンジを果たしたとも言える。ただし、それは「国家」や「社会」といった巨大な構造とは違う。国は変えられない。社会も変えられない。
そこに属する者の気質、空気、慣性、集団的愚かさ――そうしたものは、理性では動かない。いくら言葉を尽くしても、耳を塞ぐ人々の集合体が国であり、社会である。だから私は、国家を見限った。社会の改革者を目指すのではなく、企業という「変えうる単位」に照準を合わせた。
企業は、小さいが、具体的で、手が届く。そこには変革の余地があり、手応えがあり、失敗のフィードバックもある。私はそこに入り込み、制度を設計し、現場に火を灯す。
ニーバーの祈りは、敗北者の慰めではない。それは、「変えられるもの」を見極めた者の武器であり、戦略である。変えられぬ国家に執着するより、変えられる企業に注力する方が、よほど現実的で、創造的で、革命的である。私は今日も、国家は変えられぬことを確認しながら、仲間と共に企業を変える現場で奮闘している。




