無表情の目は何を語るか――神谷宗幣、ミッキー、そして企業に潜む「信用できない者たち」

● 「目から心を読む」という思い込み

 「目から心を読む」とよく言われる。だが、問題は相手が「読ませない」目をしている場合にある。

 目から心が読み取れるのは、目に表情があるからである。表情が動くことで、感情が動いていることを認知できる。しかし、完全に無表情な目を前にすると、こちらの認知システムは機能停止に陥る。我々はそこに「感情がない」のではなく、「読み取りを拒絶された」と感じ、不気味さすら覚える。

● ミッキーと神谷宗幣の目

 識者の友人S氏は、参政党・神谷宗幣代表の人気の一因を「目」に見出している。彼は次のように語った。

 「神谷氏の目とミッキーマウスの目は、どちらも“完全に感情がない”という点で共通しています。なぜあれほど多くの人がネズミーランドに吸い込まれるのか不思議でしたが、ある時あのネズミの目を拡大して何人かで観察したところ、誰もが『感情も個性も一切ない』と感じたのです。結果、見る側が自分の感情で“あたかも表情がある”ように錯覚してしまう。それが共感の源になるという仮説にたどり着きました。無表情の目――あれは本当に怖いです」

 私自身、ある企業の幹部A氏と初めて対面した際、「なぜか信用できない」と強く感じたことがある。発言は控え目で穏やかだが、目だけが不自然に動かず、感情が感じられなかった。

● 「無表情の目」の裏

 「無表情の目」がなぜ「ウケる」のか。この仮説は、心理学における「投影」の概念に近いものである。つまり、対象が表情を示さないことにより、見る側が自分の感情をそこに映し出してしまうのである。これは典型的には「赤ん坊が母親の表情から自分の状態を読み取ろうとする」場合にも見られる反応である。

 ミッキーマウスと神谷代表の目を重ねる比喩は一見すると突飛に見えるが、実は洞察に富んでいる。ミッキーの目は確かに無個性であり、常に同じ表情を保っている。つまり、感情が欠如しているのである。そのため、「見る人によって意味が変わる」という構造を持ち、カメレオン的なキャラクターとして機能し得る。

 神谷氏の「目」も同様の効果を持つとすれば、それは支持者が自己を投影できる「鏡」として機能しているということになる。すなわち、彼は「自分の不満や願望を代弁してくれそうな存在」に見え、曖昧さの中に共感の余地を残す象徴となっている可能性がある。

● 「無表情」という騙し

 無表情がもたらす「安心感」と「不気味さ」。この現象は、ユングの元型(archetype)理論とも関係がある。人は、明確な意図や感情を示さない存在に対して、「敵か味方か」の判断ができず、そこに神秘性や超越性を見出す傾向がある。一方で、不気味の谷現象のように、外見がリアルであるほど感情の欠如は違和感や恐怖を喚起することもある。

 神谷氏の目が「無表情」であることによって、一部の人々には安心感と親近感を、また別の層には不気味さや警戒心を引き起こしている。このような両義性こそが、彼のキャラクター性を逆説的に強化していると考えられる。

 神谷氏が支持を集める理由の一つとして、彼の「目=表情の空白性」が、民衆の情動や願望を投影させる受容体として機能しているという指摘は、十分に説得力を持つ。同時に、それは極めて危うい構造でもある。

 なぜなら、「白紙」に何を描いてもよいと信じて支持した民衆が、いざ描かれた絵を目の当たりにしたときに失望すれば、「裏切られた」と感じるのは不可避である。しかし、それは裏切りではなく、自己の幻想が崩れたにすぎないのである。

● 「人の目を見る目」

 無表情な目が必ずしも不正の証拠とは限らない。だが、「何かを隠している」「感情と発言が一致していない」と感じさせる目には、人間的な「警戒センサー」が反応する。神谷氏の目に投影されるものが信仰と共感ならば、企業のA氏の目に投影されたのは「計算」と「隔絶」だった。

 人事担当者は、制度や数字だけで人を見てはならない。「人の目を見る目」、目を見る力――それは、組織の健全性を守るための最後の直感的防波堤である。

タグ: