バッハと私、理性から生まれる感性

 私の内なる世界では、従来、「理」「情」を二つの異なる次元として捉えてきた。しかし、最近は徐々にその二者の位置が微妙に変わってきた。かつては理が上位概念として情を制御するという構図を描いていたが、いまや理は情を抑え込むための支配装置ではなく、情を生み出す源泉として作用するようになっている。

 理性と感性は、哲学や心理学の世界ではしばしば二元論的に対置され、「論理と感情」「知と情」といった形で語られてきた歴史がある。デカルト以来の近代哲学においても、理性は普遍的真理や秩序を導く能力として、感性は個別的経験や情緒を受け取る能力として区分される傾向が強かった。

 しかし、この二元論は必ずしも現実の営みにおいては妥当しない。理性と感性は排他的な関係ではなく、しばしば相互浸透し、ある局面では理性が感性を生み、また別の局面では感性が理性を駆動する。

 感情を余すところなく排除した、美しすぎる理性――この表現は、バッハの音楽、とりわけ『平均律クラヴィーア曲集』や『フーガの技法』にふさわしいものである。そこには、感情を直接的に訴えかける仕掛けや装飾的演出は存在しない。すべてが和声と対位法という厳密な構造と法則に従い、音符は論理の必然によって配置されている。

 しかし、だからこそ不思議な逆説が生まれる。意図的に感情を盛り込まないその構造から、聴く者の心を揺さぶる感性が立ち上がるのである。この感性は、作り手が直接操作したものではなく、構造の精緻さという理性の影から自然発生的に生まれる副産物である。理性は感性を設計しないが、感性は理性の影から立ち上がるのだ。

 この現象はビジネスの世界にも等しく当てはまる。理念や美辞麗句を前面に押し出し、消費者を感動させようと意図する経営は、しばしば空虚な結果に終わる。対して、構造的必然性――すなわち市場分析、顧客ニーズの的確な把握、効率的な供給体制と価格設計――を徹底して追求する経営は、その過程の中で顧客に心地よさや満足感という感性をもたらす。これは直接的な「感動の演出」ではなく、理性から必然的に導かれた感性である。

 ビジネスとは、文化の布教や啓蒙ではなく、消費者が楽しんでいればそれでよいのである。顧客が満足し、購買行動を繰り返すならば、その商品やサービスは「良い」のであり、文化的純度や理念の高さは二義的である。美しさや感動は、厳密な構造と必然性を持つ理性の所産としてこそ、最も安定し、最も強く人を惹きつけるのである。

 人事制度設計においてもまた然り。

 私がこれまで古典音楽に対して抱いてきた勝手な解釈の多くは、実のところ、感情を直接的に訴えかける仕掛けや装飾的演出から生まれたものであることに気付いた。旋律の劇的な高揚、和声の意図的な遅延、極端な強弱やテンポ変化――これらは聴き手の感情を直撃し、そこから多様で自由な解釈が派生する。

 これに対し、理性から副産物として立ち上がる感性は、その自由な解釈の幅が著しく限られている。なぜなら、それは理性の整然とした秩序という美に支配されているからである。厳密な構造と法則の中に生まれる感性は、解釈の可能性を無限に広げるのではなく、むしろ秩序の枠内に閉じ込め、その美を損なわぬ方向にだけ変奏を許す。そこには即興的な奔放さではなく、必然の連鎖としての自由が存在するのである。

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