<雑論>日本の偽右と中国の反西側価値観 / 脱・中国サプライチェーンと高市政治 / 日本人の五段階心理変化 / SNSとAIがもたらす「暇と愚の分岐点」 / 外国人叩きは自己欺瞞の麻薬

● 日本の偽右と中国の反西側価値観

 弱者は、自分の弱さを認めたくない。だからこそ、常に敵を――あるいは強敵を――作り出す。敵と戦う自分を虚構し、その戦いの中に「強者である自分」を見出そうとする。

 彼らにとって、強い言葉こそが武器である。だがその言葉に中身は要らない。論理よりも、声の大きさ。内容よりも、調子の強さ。重要なのは、言葉が力強く響くことであって、意味を持つことではない。この修辞的強硬さこそが、彼らの精神的麻薬である。強いフレーズに酔い、敵の存在で自分を確認する。その自己演出の構造こそ――偽右の正体である。

 この構造を国家規模で比較したとき、最も対照的に浮かび上がるのが日本と中国である。日本の偽右は、敵を虚構的に作り出す。中国は、敵を現実の構造として定義する。どちらも「敵」を前提にしているが、前者が感情の演劇であるのに対し、後者は理論と戦略の体系である。

 日本の偽右にとって、敵は自己演出のための道具である。反中、反韓、反リベラルと対象は何でもよい。重要なのは、敵を作り、戦っている自分を誇示することだ。勝つことよりも「戦っていること」が目的であり、言葉の強度が存在証明になる。彼らは思想を語るのではなく、態度を演じる。ゆえに、敵は常に入れ替え可能で、現実とは無関係である。

 一方、中国は「西側価値観」という抽象的な敵を明確に設定し、それを国家戦略の中核に据えている。米国主導の国際秩序、ドル基軸、NATO、情報覇権――これらは中国の実際の行動を制約する現実的構造である。したがって、中国の「敵」は虚構ではなく、実在的であり、分析と対策の対象である。そこに政治的リアリズムがある。

 さらに、中国は単に「西側価値観」を否定しているわけではない。それを再定義することで理論的対抗軸を築こうとしている。「全過程人民民主」という概念は、西側の形式的民主主義を批判し、「政策形成過程への市民参加」というプロセス重視の民主を主張する。正否は別として、そこには思想の構築がある。

 日本の偽右は、言葉の戦争をしている。中国は、構造の戦争をしている。前者は声の大きさで勝負し、後者は制度と資源で結果を決める。偽右がSNSで喝采を求める間に、中国は現実を設計し、秩序を再定義している。言葉の戦争は翌日に忘れられるが、構造の戦争は十年後に世界を変える。

 もし成熟を「現実を認識し、それに基づいて行動体系を構築できる力」と定義するならば、中国のほうがはるかに成熟している。日本の偽右は、弱者が演じる強者であり、中国は、敵を利用して強者の地位を固める現実主義者である。

 虚構の敵は自己を酔わせ、真実の敵は思考を促す。日本の偽右が求めるのは喝采であり、中国が求めるのは勝利である。その差こそが、国家の知性の差である。

● 脱・中国サプライチェーンと高市政治

 脱・中国サプライチェーン、産業回帰。安倍晋三時代の産業回帰補助金政策について、某在中日系企業の幹部の発言を思い出した――。「移転コストの2〜3%を払ってくれる程度のもの。動くわけがない。日本に戻っても労働者いないし、コストが高くて話にならない」

 安倍政権が 打ち出した産業回帰「対中依存低減補助金」は、数千億円規模。しかし、サプライチェーン再構築に必要なのは数十兆〜100兆円レベル。例えるなら、火事の家にコップ一杯の水をかけて「消火した」と言っているレベル。焼け石ですらない。

 ベトナムやASEANに移転しても、結局その上流(川上)は中国のまま。川上を握った中国が、ASEAN全体の血流を支配している。つまり、ASEANに逃げても、中国からは逃げられない構造的運命にある。

 脱中国? 不可能。川上が中国である限り、日本もASEANも中国の供給網の奴隷だ。そういう意味で、中国に「毅然」と喧嘩を売るのが馬鹿な偽右日本人だけ。威勢のよい対中強硬論を吐くくせに、いざ「脱・中国サプライチェーンを本気でやるなら、数十兆円の国家投資が必要だ。ではあなたはどれだけ負担する?」と問われた瞬間、空気が凍りつく。声は大きいが、財布は沈黙する。

 結局のところ、彼ら自身が毎日享受しているのは、中国製サプライチェーンで実現する割安な生活である。縁を切れと言いながら、自分の家計簿は切れない。その矛盾を直視したくないから、怒りのポーズに逃げ込む。厳しい言い方だが、事実は残酷だ。偽右とは、言葉だけ大国主義を掲げ、現実のコストを自分では一円も払わない人々である。彼らが守っているのは国家ではなく、自分の財布だ。

 私は政治家でもなければ社会活動家でもない。別に日中関係はどうでもいい。国や国民の損得の問題だけだから。世の中、喧嘩を売って商売だけは仲良くしようというのはなかなか難しいので、弁えて処理するのが常識だ。商売が要らなくてもいいから、喧嘩してスッキリしたいというのも立派だと思う。私も昔上司と喧嘩して会社を辞めた。それは一個人なら会社を辞めれば、自分と家族に対する責任だけで済むが、国家となるとそう簡単に済まされない。

 コメンテーターの眞鍋かをりがこう言った。「国会とかを今まで見なかった世代の人も見るようになってきてるっていうのはすごく大きい」「国会も高市さんになって面白くなった」「見ていて気持ちのいいというか、そういう内容になってきた」。だったら、お笑い芸人が首相になればいい。

 私が言っているように、高市は女性活躍ではなく、女優活躍だ。支持率は、もはや芸能人気度である。プラトンが描いた「民主主義の末路=衆愚政治劇場」は、2400年後の日本でほぼ予言通りに現実化している。政治に無興味な国民が多いのはまだたちがよい。政治に無知でも政治に参加する国民が増えるほど怖いことはない。

 私が住むマレーシアが高市式の「威勢・情緒・劇場型」よりはるかに理性的に国家を運営している。マレーシア政治には粗さも腐敗もある。しかし、国家運営の核心部分――財政・対外戦略・多民族調整――は、日本よりよほど現実主義である。理由を三つ、手短に。

 第一に、マレーシアは感情で外交をしない。中国にも米国にも「寄りかかり過ぎず、敵にもしない」。ASEAN特有のバランス外交を徹底しており、強がりもヒロイズムも不要だ。高市のような勇ましさのポーズ外交は最も嫌われるスタイルであり、そもそも採用しない。

 第二に、財政運営が日本より正直である。補助金を削る時は削る、税を上げる時は上げる。国民に痛みが来る施策も、政治家が正面から説明し実行する。日本のようにバラマキで酔わせてから壮絶なツケを未来に放り投げる構造とは対照的だ。バラマキ中毒の政治家が少ない分、財政破綻のリスク管理は健全だ。

 第三に、国民が政治を神格化しない。マレーシアの国民は、政治家の失敗にも成功にも比較的ドライで、過剰な期待や幻想を抱かない。だから政治家も「勇ましさ」「救世主アピール」で支持率を稼ぐ必要がない。ポピュリズムの劇場が広がりにくい。

 要するに、マレーシア政治の長所は、派手さではなく、地に足のついた「現実処理能力」にある。これこそ国家運営の基礎体力であり、高市式の化粧政治とは比較にもならない。そう言う意味でマレーシア国民の平均民度が高い。

 高市政権は、外交よりも、内政のほうがはるかに問題が大きい。長期金利がどんどん上がっている。金利が1%上がれば利払いは将来10兆円規模で増える。2%なら20兆円。これは防衛費や教育予算が丸ごと吹き飛ぶレベルだ。世界で最も国債を抱え、GDPの260%を超える債務を背負っている国家にとって、「利上げ」と「財政破綻リスク」はほぼ同義語である。

 日本人は本格的に学習するだろう――インフレとは何か。インフレとは、単に物価上昇だけではない。国家が過去に積み上げた選択と怠慢の請求書であり、未来の生活水準を決定づける残酷な秤であり、そして国民に「もう昔には戻れない」と告げる冷酷な現実である。

 札が刷れる、財政は破綻しない。「国の財政破綻」ではなく、「国民の家計破綻」が近づくサイン。金利上昇 → 国債費膨張 → 増税・社会保険料上昇 → 円安 → 生活必需品高騰 → 賃上げ停滞 → 消費萎縮 → 税収鈍化 → 財政悪化 → さらなる金利上昇 → …(無限ループ)という負の連鎖の入口に立っている。そしてこれを引き起こしたのは、恐怖を煽る偽左でも、勇ましく吠える偽右でもなく、現実を見ない政治と、その政治を選んだ国民。

 市場は嘘をつかない。
 政治家は嘘をつく。

● 日本人の五段階心理変化

1.脱亜入欧――「白人への憧れ」
 明治期、日本人は文明を「欧化」と同義に置いた。白人が一流、黄色人種は二流。だが、その中で日本は「二流中のトップ」であるという位置づけに安住した。この時点で、日本人の自尊心はアジアへの蔑視を前提に成立していた。

2.太平洋戦争――「白人への挑戦」
 日本はついに欧米列強に正面から挑み、「二流から一流へ」の突破を試みた。それは文明的上昇の夢であり、同時にアイデンティティの賭けでもあった。だが敗戦の結果、その夢は打ち砕かれ、「一流への道」は閉ざされた。

3.敗戦後――「白人への屈服と慰め」
 日本は再び「二流中のトップ」に戻る。アジアを見下すことで、白人に敗北した屈辱を埋め合わせた。敗戦後の経済成長は、白人に追いつく代償としてではなく、白人社会に「よくできた模範生」として受け入れられることへの執念だった。

4.中国の台頭――「アジアに抜かれる恐怖」
 今度は白人ではなく、同じ黄色人種が日本を追い抜こうとしている。中国がアメリカを超えるという現実は、「黄色人種=二流」という前提を覆す。つまり、日本が二流の中でトップにいるという心理的安全地帯が崩れる。そのため、日本人は中国の台頭を「危険」と感じるのではなく、屈辱として感じる。

5 .中国の時代――「服従なき服従」
 中国の台頭を前に、日本人はもはや現実を否定できなくなる。経済、技術、外交――いずれの領域でも中国が優位に立ち、日本は依存を深めざるを得ない。だが、「アジアの中で二流中のトップ」であるという自己像を維持したい日本人は、これを服従とは呼ばない。

 そこで言葉を置き換える。「協力」「パートナーシップ」「共存」「サプライチェーンの分担」。実質的には中国の経済圏の一部として機能しながら、心理的には「自分たちはまだ独立している」と思い込む。つまり、行動は従属、意識は独立。これは既に始まっている――頭は反中、財布は親中。

 この現実と幻想の乖離こそが、戦後日本の最終段階である。明治の「脱亜入欧」から始まった自己欺瞞の物語は、ついに「脱欧入中」を否認しながら進行する。だから第五段階は、単なる「中国への服従」ではなく、「服従を認めない服従」――すなわち知的降伏の段階である。身体はすでに従い、頭だけが抵抗している。

 この乖離が続く限り、日本は誰に従うかではなく、自分に嘘をつき続ける国として衰退していく。ちなみに「脱欧入中」には先輩がいるのだ――ロシア。

● SNSとAIがもたらす「暇と愚の分岐点」

 SNSでの脊髄反射的な書き込みは、もはや思考ではない。存在確認の儀式だ。考える前に反応し、「自分はここにいる」と実感したい衝動。群れに同調し、孤立を避けるための反射。怒りや不安を吐き出して、心の均衡を保とうとする防衛反応。それらはいずれも、知性の産物ではなく、精神的な消費行動である。反応を重ねるほどに思考は薄まり、独自性は失われる。

 この「反応経済」には、冷酷な構造がある。人々が自らの時間を惜しげもなく費やし、感情を無料で提供することで、SNS企業は莫大な利益を得ている。つまり、ユーザーは「自由に発信している」どころか、無報酬で広告価値を生産するデジタル農奴にすぎない。スクロールし、怒り、賛同し、また書き込む。その一つひとつがアルゴリズムの歯車を回し、プラットフォームを太らせていく。

 人間に平等に与えられた唯一の資源は、時間である。その時間を脊髄反射的に浪費し、他人の利益に献上しているのだから、これを愚民と言わずして何と言うのか。彼らは「言葉を持つ者」ではなく、「言葉に使われる者」へと退化している。

 賢者は沈黙するのではない。沈黙を戦略的に使う。反応の衝動を一拍抑え、その後に思考を置く。それこそが知性の行為であり、自由の第一歩だ。脊髄ではなく、脳で語れ。SNS時代における真の抵抗とは、反射しない勇気である。

 AIの発展によって、人間は確かに時間を得る。労働や作業、調査や整理といった「手足の延長」は、AIが代替する。だが皮肉なことに、人類はその獲得した時間を、再びSNSの祭壇に献上するだろう。

 AIが人間の手を解放し、SNSがその解放された手でスマホを握らせる。まるで進化と退化が同じ速度で進むような構図だ。AIは本来、人間に思考の自由を取り戻すはずだった。しかし現実には、反応の速度を上げるだけの存在として消費されつつある。

 この先、人類は二つの群に分かれる。AIによって得た時間を思考に投資する者と、反応に浪費する者である。前者は、知的複利を積み重ねていく。AIを自分の頭脳の拡張として使い、情報の中に構造を見いだす。後者は、AIに時間を奪われたのではなく、自ら進んで差し出す。スクロールとコメントを繰り返しながら、AI時代の新しい奴隷制を生きる。AIは知的格差を生む装置ではない。格差を拡大する鏡である。

 AIがもたらすのは「暇」ではなく、「暇の使い方の審判」だ。思考に時間を使うか、SNSに時間を捧げるか。その選択こそ、資本格差の未来を決める分水嶺となる。人間がAIによって得た自由時間を思考に還元し、内省や創造に変えるならば、それは人類の新たなルネサンスの始まりとなるだろう。

 しかし、もしその時間をすべてSNSに吸い取らせるなら、それは人間が自ら進んで愚民化する新時代の封建制である。AIが与えるのは知恵ではない。思考する者と、反応する者を分ける最後の試験である。

● 外国人叩きは自己欺瞞の麻薬

 我が家は、フィリピン人労働者の家政婦を12年も雇用してきた。正直に言って、会社のホワイトカラー従業員が一人辞めても業務に大きな支障はないが、彼女が辞めたら我が家の「運営」ができなくなる。まさに家庭崩壊の大ピンチである。掃除、洗濯、料理、買い物、犬猫の世話、ありとあらゆる家事が、彼女の手の上で流れるように回っている。

 ゆえに、私は彼女に一般市場相場よりはるかに優れた賃金待遇のインセンティブを与えてきた。12年の信頼関係と安定は、もはや家族の一員といってよい。われわれも外国人、外国人が外国人を雇って、穏やかに、そして効率的に生活している。それがこのマレーシアでは自然な日常であり、誰も眉をひそめない。社会がそれを成熟した分業とみなしているからだ。

 だが、もしこれが日本だったらどうだろう。ニュースサイトやSNSで、外国人家庭もそこで雇われる外国人家政婦も、即座に「炎上」の餌食になるだろう。さらにいうと、合法の外国人労働者ならまだしも、不法労働者となると? 面白い事実があった。

 1993年、日本には約29万人の外国人不法残留者がいた。今の4倍である。それでも社会は荒れなかった。外国人排斥運動もなかった。外国人は「労働力」として歓迎され、治安の悪化よりも「経済の潤滑油」として受け入れられていた。なぜか。それは日本にまだ余裕があったからだ。懐にも心にも。

 ところが今は、7万人そこそこで大騒ぎである。外国人を「侵略者」と呼び、Xで怒鳴り散らす。だが本当は、彼らが怖いのではない。かつての自分を失った日本が怖いのだ。バブルが弾け、円は沈み、賃金は上がらず、社会は自信を失った。自分を誇れぬ人間は、他人を叩くことでしか立てなくなる。つまり、外国人を叩く音は、日本人自身の空っぽな胸の反響音である。

 いまの日本は、かつての繁栄を失いながらも、その喪失を直視できない。だから、身近な異物に怒りをぶつける。だが、外国人を追い出しても、残るのは空洞のままの日本である。誰かが働かなければ、工場も介護施設も回らない。誰かが税を納めなければ、年金も医療も維持できない。つまり、外国人を追い出すとは、自分の生命維持装置を自ら破壊する行為である。

 外国人を叩いても、経済は強くならない。治安は気分的にしか良くならない。だが「我々はまだ特別だ」という幻想だけは維持できる。結局、排外主義とは、没落の痛み止めであり、自己欺瞞の麻薬である。本当に日本を立て直すなら、追い出す相手は外国人ではなく、過去への執着とプライドの残骸である。

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