急激な「円安」、退化論的に日本人の「生活防衛」を再考する

 本稿の論点は2つ、「円安」と「生活防衛」。

 まずは「円安」。急激な円安が進み、いよいよ1ドル114円になった。だが、これが「円安」といえるのか。それは1年そこそこの時間軸で比較し、相対的に円安であり、一種の「相対的評価」である。肝心なのは、円の「絶対的評価」、つまり時間軸という基準を排除して日本円は一体どのくらいの価値があるかである。

 ちょうど1か月前、私のブログ投稿では、こう書いた――。

 「いまの相場は円安といえるのだろうか。この先さらにじわじわと円安にぶれることはないだろうか。私はこの辺の専門家ではないのだが、感覚的に1ドル120~130円という自分の相場観をもっている。ならば、いまはまだ円高の時代とさえ言えてしまうのではないか」

 とりあえず、私の予測(ただの勘かもしれない)が当たったようだ。ならば、1か月前の108円の相場は、いまと比べると「円高」であった。ちょうどそのときに海外移住でも決めてまとまった大金の円を海外に送金した人はいまとても喜んでいることだろう。1か月で大儲けした気分だ。

 もし、私の予測が引き続き当たり続け、このまま120円や130円の世界に突入していくのなら、将来のいつかの時点に立って今を振り返ってみればいまこそが「円安」の時代だったのではないだろうか。私自身として、「円安」進行の可能性も考えるが、むしろ将来的に「円高」にぶれる可能性に着目して自分の「勘」を形成しているのである。とはいって、根拠ある予測も、根拠なき勘も、最終的に実証がすべてだ。しかも、個人責任で・・・。

 ここまで書いたのは、円相場そのものを論じるのではなく、相対論に触れてみたかったからだ。

 二つ目、「生活防衛」。バブル崩壊後から今日に至るまでの間、全体的に日本人が「生活防衛」を怠ったことはあったのだろうか。むしろ、ほとんどの日本人が「生活防衛」をし続けてきたのではないか。だが、防衛できているのか。防衛すればするほど惨めになったのではないか。誰のせいだ。政治家のせいにしてもいい、国のせいにしてもいい。企業のせいにしてもいい。ひいて資本主義制度のせいにしてもいい。だからといって惨めな状況は変わるのだろうか。変わらない。いや変わるとすれば、悪化するのみだろう。

 防衛すればするほど状況が悪化する。防衛しているから防衛できなくなる。防衛行為そのものに問題はなかったのだろうか。人間は常に自己正当化する本能をもっている。しかも、「生活防衛」という概念はいかにも正義や正当性に満ちた響きが付きまとい、どんな惨めな境地に陥っても、「防衛」に徹してきた自分がいくら犠牲になっても、ヒーローやヒロイン気分に酔い痴れ、政治家や国や社会や諸制度の悪口を言い続けるのである。すべてが悪い、としてもですよ、自分の境地は何ら改善もされないのである。

 そう、「円安」も同じだ。ようやく海外に目を向け始める日本人はいま、がっかりしているのかもしれない。なぜ?その根底にそもそも「生活防衛」の一念はなかったのだろうか。日本のなかいよいよ暮しづらくなったから、海外へ脱出しよう。大変受動的に考えていないか。

 「攻撃は最大な防衛」という肉食的な価値観は日本人に似合わないかもしれない。だが、この世界は間違いなく、肉食社会にどんどん急速に進化、あるいは相対論的に退化しているのである。ダーウィンが生きていたら、もしかすると「退化論」を書いてノーベル賞を取っていたかもしれない。

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