自分の内と外で生きる人間、質と量の分別能力問われる

 人間は自分自身の所為によって幸福になるのか。それとも他人にどう評価されるかによって幸福になるのか。ルソーが「人間不平等起源論」にこう述べた。

 「自分が他人にどのように評価されているかが大切であると考える人々、自分自身の証言よりも、他人が自分について語る証言によって幸福になったり、満足したりできる人々が、そもそも世の中に存在しうるということを、未開人は理解する必要があるのだ」

 「野生人と文明人の違いを作りだしている根本的な原因は、まさにここにある。野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることがない。自分が生きているという感情を味わうことができるのは、いわば他人の判断のうちだけなのである」

 「自らのうち」と「自らの外」、内外での生き方。現代社会に生きるわれわれは、無論完全に「自らのうち」で生きるわけにはいかない。他人にどう見られているか、どう評価されているかという他人や周りの目を気にしながら、生きていかなければならない。

 そこで2つの問題がある。

 1つは、量の問題――。「自らのうち」と「自らの外」という「うち度」と「そと度」の比率はどのくらいかという問題だ。「うち度」と「そと度」の比率は各人によって異なる。「そと度」の比率が高ければ高いほど、ストレスがたまりやすいことはいうまでもない。

 もう1つは、質の問題――。他人の目がどのくらい真実を語っていて有益なのかという問題だ。自分自身の人間性や人生ないし生活品質の改善につながる有益な「他人の目」とそうではない「他人の目」を見極める必要があるだろう。

 他人や周りの目を気にする必要はあるが、何(質)を、どこ(量)まで、気にするかという個人個人の価値判断と分別がとても大切なのだ。自分自身に対してきちんと責任感をもってその分別を行っているのか、現代に生きる日本人は自問したい。

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コメント: 自分の内と外で生きる人間、質と量の分別能力問われる

  1. はじめまして。つかっちといいます。
    半世紀というフレーズでこちらへ
    お伺いさせていただきました。
    自分にあてはめると、野性的な部分が
    半分以上あるな~と思い、
    要するに、かなり風変りな性格だと
    自認していますので。

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