【Wedge】働き方改革(9)~ゴーン被告報酬にサイン、日産・西川社長はなぜ「深く考えなかった」のか?

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 日産前会長カルロス・ゴーン被告らが起訴された役員報酬過少記載事件で、同社の西川廣人社長が東京地検特捜部の調べに対し、有価証券報告書に記載されなかった報酬の支払い名目を記した文書にサインしたと認めていることが分かった。「ゴーン被告と(前代表取締役の)グレゴリー・ケリー被告との間で話ができていると思い、深く考えなかった」と話しており、改めて説明責任を問われそうだ。(2019年3月22日付け 共同通信)

● 「深く考えること」への恐怖感

「深く考えなかった」

 どこかで聞いたセリフだ。日大アメフト部の悪質タックル事件で、部員たちは声明文を発表した。そのなかで、監督やコーチに頼りきり、その指示に盲従する原因として、「深く考えることもなく信じた」と説明した。(参照:観客席の悲劇、日大アメフト事件の本質をえぐる

 体育会系の若者ならまだしも、14万人の社員の頂点に立つ社長まで「深く考えなかった」とは、開いた口が塞がらない。西川社長に「論理思考力」が不足しているのか、それとも「深く考えようとしなかった」のか。いずれにしても社長としてあるべき姿ではなかった。その根底にあるのは、「深く考えること」への恐怖感なのかもしれない。

「深く考えること」とは、何か?

 哲学者ニーチェいわく「一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている」(フリードリヒ・ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

 つまり「深く考える」とは、自分の判断や行動を否定する「もう1人の自分」が存在すること、そしてその「もう1人の自分」とリアルな自分とが対話することを前提とする。言いかえれば、自己否定のできるもう1人の自分の存在が求められている。

 緻密に論理を積み上げていく力は、技術的な「論理思考力」である。これはどちらかというと「浅く考える力」にあたる思考の基礎、あるいは初歩的な段階である。一方、「深く考える力」とは、「考える自分を考える」という「もう1人の自分」を必要とし、認知バイアスや感情バイアスたる希望的観測を徹底的に排除し、あらゆる誤謬を是正する真の叡智を意味する。

 ここまでいうと、「深く考える力」をもつことがいかに難しいかと思われるかもしれないが、実はそうではない。

 実際は、誰にもその「もう1人の自分」が存在している。ただ、「もう1人の自分」は自分を否定するだけに、怖い存在になっている。故に、「もう1人の自分」から逃げ出そうとする自分、あるいは逃げ出している自分がいることに気付く。いや、逃げ出していることに気付きすらしないときもある。

● 権威への盲従のメカニズム

 仮説として、日大アメフト部の部員が、監督やコーチから何らかの形で悪質タックルを指示されたとしよう。彼は「もう1人の自分」から、「相手チームの選手に酷い怪我をさせるかもしれないし、最悪の場合、後遺症や死亡に至らせるかもしれない。そういう指示に従うな」と、指示に盲従しようとする自分が否定されるであろう。

 この「もう1人の自分」との格闘がいかに苦しいものか。そこから逃げ出すには、「深く考えること」を回避するのが最善の手段となる。これを日常的に繰り返すことで習慣となり、ついにその「逃げ出す行為」の存在にすら気付かなくなる。つまり、無意識に「深く考えること」をしなくなるのである。

 2018年4月4日、大相撲春巡業中の出来事。土俵の上で挨拶をしていた舞鶴市の多々見良三市長は突然その場に倒れた。複数の女性がとっさに駆け寄って応急処置に当たったところ、行司が場内アナウンスで「女性の方は土俵から下りてください」と繰り返し呼びかけた。

 大相撲では伝統的に女性が土俵に上がることを禁じているが、1秒を争う人命救助を前にして明らかにその価値判断は間違っている。「どんな伝統や規則よりも、人命救助を最優先せよ」という「もう1人の自分」がついに出てこなかったわけだ。「女性は土俵に上がるな」というアナウンスをする行司と、それを否定する「もう1人の自分」の戦いすらなく、本能的にリアルな自分が先行してしまったのかもしれない。

 その行司は世論に批判された。しかし、われわれ一人ひとりがいざその場に置かれた場合、「もう1人の自分」が出てくるのだろうか、そして自分に対する否定を瞬時に受け入れられたのだろうか、胸に手を当ててみたい。

 いざ問題が表面化すると、世論が動き出す。世論の参加者はほぼ全員事件に無関係な人たちであり、つまり世論そのものが外野の騒ぎにすぎない。自分に無関係である以上、外野の一人ひとりがみんな、当事者の「もう1人の自分」(正義の代弁者)になるのである。事件がすでに発生した(している)のだから、事後に現れた「もう1人の自分」は牽制役でなく、批判者に転じるわけだ。

 前述の通り、多くの日本人は、無意識に「深く考えること」をしなくなっている。上位者や規則、既存の権威に無条件に従い、環境に順応することが本能化してしまったのである。環境への順応はあらゆる生物の自己保存本能である以上、果たして批判の対象になり得るのだろうか。

 現状に対する批判は、ある意味で現状への変革願望を表わす。建設的な動きに持っていくには、特定事件の特定人物に対する批判や非難にとどまらず、その背後に隠されているメカニズムをえぐり出し、社会規模の構造改革に取り組まなければならない。ただ、いざ気がつけば批判者や改革者自身も、部分的であれ、現行体制の受益者だったりする。それでも改革者の一員になれるのか。三人称ではなく、一人称で既得利益にメスを入れると。

 本題の西川社長の話に戻ろう。

● 西川社長はなぜ「深く考えなかった」のか?

 西川社長も若い頃、日大のアメフト部員と同じような日常があったのではないかと推測する。そして「深く考える」こととの断絶が生まれ、知らないうちに深く考えなくなり、深く考える力も失われた。ゴーン被告とケリー被告との間で話ができているのだから、深く考える必要もなく、渡された書類にサインをしてしまった。

 もしその当時、西川社長が問題となる報酬について「深く考えた」なら、どうなっていたか。不審に思えた報酬について根掘り葉掘りゴーン氏やケリー氏に追及すべく、議論を持ちかけたに違いない。「ゴーンさん、ケリーさん、恐縮ですが、この報酬の詳細について説明をお願いします。なぜ、その報酬があるのですか。どういう根拠や基準で決めたのですか」と。

 なぜ、西川社長は議論を持ちかけることができなかったのか? その前に、議論を持ちかけたらどうなっていたかを考えてみたい。結果的に、西川社長の牽制により、不正の報酬計上も、有価証券報告書の記載漏れも避けられたかもしれない。日産自動車という会社は、不正行為による不利益や損害から守られたかもしれない。それはまさに西川社長の「もう1人の自分」の出番であり、本来、社長として為すべきことであった。

 だが、一方で西川社長はこのような議論を持ちかけることによって、ゴーン氏から睨みつけられたかもしれない。あるいは潜在的な対立が顕在化し、ゴーン氏との関係が一気に険悪化し、西川社長の個益には不利な展開になったかもしれない。そこに西川社長のリアルな自分があったと推察される。

 西川社長は「もう1人の自分」から「リアルな自分」を否定されないためにも、「深く考える」ことを避けるよりほかになかった。結果的に、彼は、「深く考えなかった」のだ。

 反対の仮説を見てみよう。西川社長がもし深く考え、「もう1人の自分」から「リアルな自分」を否定されても、ゴーン氏やケリー氏に異議を申し立て、堂々と議論を促していたら、どうなったのだろうか。

 役員会には議事録がある。西川社長が疑問や不審に思っていた事項を役員会のアジェンダに上げ、議論したところで、一部始終をすべて議事録に克明に記録したとすれば、状況は一変していただろう。仮に悪事を企んでいたゴーン氏であっても、やりたい放題できなくなったのではないか。ゴーン容疑者が独裁者で暴走していたとすれば、牽制役の不在が主因だったのではないだろうか。独裁者の暴走を許した西川社長には重責がある。その責任は経営上の責任か、あるいは法的責任か、これからの調査で明らかになっていくだろう。

<次回>

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