【Wedge】老獪なトランプの算段、米中第1段階合意を深読みする

 米中は10月11日、通商問題に関する協議で「第1段階」の合意に達した。トランプ大統領は「米中貿易戦争の終結に近づいている」と言明しただけに、またもや楽観ムードが広がり、株価も上がるだろうし、市況も好転するだろう。果たして米中貿易戦争が終結に向かい、「平和」の時代が到来するのだろうか。

● 米中交渉が妥結できない根本的な原因

 昨年(2018年)12月9日の拙稿『休戦あり得ぬ米中貿易戦争、トランプが目指す最終的戦勝とは』を引っ張り出すと、こんな一節があった――。

 「かろうじて戦闘状態の現状維持であり、休戦でも停戦でもなく、激戦を90日先送りしたに過ぎないのである。大胆な仮説になるが、そもそもトランプ大統領は『終戦』を当面の目標としていないのではないかとさえ思う。トランプ氏が目指しているのは、最終的な『戦勝』であって、当面の平和といった短期的利益を前提とする『休戦』や『終戦』ではないからだ。最終的な戦勝を手に入れるために、長期戦や激戦をも辞さないという腹積もりだったのかもしれない」

 当時も米中戦の小休止があって、「休戦」や「終戦」の観測や楽観ムードが広がった。10カ月後の今、双方の戦いが一進一退しながらも、本質的な状況が変わっていない。いわゆる「第1段階」の合意は、農業や通貨など歩み寄りやすい部分に留まり、「小粒合意」に過ぎない。

 このたびの合意条件に基づき中国は、今後2年で年間400億~500億ドル規模の米国産農産品を買うことになる。政府統計によると、2017年の米農産品の対中輸出総額は195億ドルだった。要するに現状の倍以上の規模になるということだ。

 今年初めの米中交渉において、中国側が米国から農業・エネルギーなどの製品やサービスを「相当量」購入することを約束したところで、トランプ大統領はその「相当量」を2倍、または3倍にすると合意の「量的条件」を大幅に引き上げた(3月21日付けCNBCニュース)。今回の合意によりこの「量的」部分は実現することになり、トランプ氏の勝利といえる。

 交渉はつねに、「量」と「質」という2つの部分からなっている。中国は「量」に関していくらでも交渉可能としている。現下中国国内の食糧事情を見ると、米国の農畜産品を買うことに抵抗はないだろう。それどころか、むしろ食糧不足(豚肉の例、参照:『たかが豚されど豚、中国の「豚肉危機」はなぜ怖いか?』)で大量購入が必要ではないだろうか。だから、この「量的」部分の妥結はそう難しくない。

 米中間に横たわっている問題でもっとも肝心(厄介)な「質的」部分、すなわち中国の「構造改革」問題は、これからの第2や第3段階の交渉に持ち越されている。「量的」部分は経済問題だが、「質的」部分は政治問題となる。

 昨年12月18日に開かれた中国改革開放40周年大会の演説で習近平氏は、「改めるべきことで改められることは我々は断固改める。改めるべからざることで改めてならぬことは我々は断固改めない」と述べた。これは要するに「量」の交渉に応じてもいいが、「質」にかかわる要求には応じられないという明確なメッセージとみていいだろう。「質」の変更は政権の統治基盤を揺るがし、シリアスな政治問題である以上、そう簡単に妥協・解決できるものではない。

● トランプにとって「百利あって一害なし」のやり方

 一方、トランプ氏が貿易戦争を仕掛けた根本的な意図は、中国の本質的な構造改革にある。なぜなら、構造改革がなければ、一時凌ぎの量的妥協を繰り返しても、抜本的な問題解決にならないからだ。これはトランプ氏がすべての分野における全面的解決(包括的合意)をなくして取引に応じないという姿勢に徹していた理由でもあった。

 ただし、全面的解決と段階的解決とは決して矛盾しない。問題(難題)を分割して各個撃破的に段階的に解決していくことは、ビジネスの要訣でもある。小さく分割された各個の問題は、元の問題に比べて制御が格段に容易になり、すぐに解決に至る場合が多い。個々の問題解決の積み上げにより、最終的に、元の大きな問題の解決に至ることができる、という概念である。

 分割された問題の解決にあたっては、トランプ氏は投入コストを最小限に抑えた。第1段階の妥結条件を見ればわかる。中国の米国農産品の「爆買い」約束と引き換えに米政府はこの部分合意の確定に伴い、10月15日に予定していた25%から30%への追加関税(2500億ドル相当分)の引き上げを先送りする。新規の制裁実施を積み上げないだけで、実施済みの既存制裁を解消するものではない。いわゆる、悪い話の「足し算」をしない、それだけの話。そのために、トランプ氏は2か月前にこの「足し算」の材料(追加制裁のアナウンス)を用意したのである。

 要するに、第1段階の妥協は米国側にとって、実質的な損害やコスト投入はほとんどないという好条件に基づいている。ほかのメリットも多い。中国に農産品を買わせて米国農民を喜ばせ、中国から金融サービス企業への市場開放の約束を取り付けてウォール街を喜ばせる。

 来年の大統領選に向けて、トランプ氏にとって票田の確保は欠かせない急務になってきている。対中貿易戦争でトランプ氏にいちばん圧力をかけてくるのは、農民とウォール街。この二者の問題を解決すれば、選挙もずいぶん軽快になる。たとえ中国が例によって将来、合意を反故にし、農産品を買わなくなったり、金融サービス市場を開放しなくなったりした場合でも、それは誰のせいかといえば、中国のせいであって、トランプ氏の問題ではない。逆に、「だから中国を徹底的にやっつけなきゃダメだろう」というトランプ氏の反中政策の正当性が実証されるわけだ。

 これから第2や第3段階の交渉が待っている。時間がかかる。トランプ氏にとって中国式の牛歩戦術がいまのところ、いちばん都合がいい。中国問題は大きすぎて一括解決できないから、段階的に取り組んでいく。それを選挙まで持たせればいい。あと1年の時間、とにかく選挙が終わり、続投できれば、あとはやりたい放題だ。これがトランプ氏の企みではないだろうか。

 それにしても、不思議な取引だ。中国は、2500億ドル分の追加関税について、25%から30%への引き上げの据え置きで、5%つまり125億ドルの利益を得る。その代りに、400億~500億ドル規模の米国産農産品を買う。どう考えても、経済的利益の出る取引ではない。なぜ、合意したのだろうか。

● 香港は「捨て駒」の宿命から逃げ出せない

 トランプ氏にとって実に都合のいい交渉だった。それがなぜできたかというと、香港問題の存在は無視できない。

 習近平政権はいま香港問題で手を焼いている。米国の介入を避けるという意味において、香港問題は米中通商交渉の取引材料になり得る。トランプ氏は早い段階で中国に「武力鎮圧なら、貿易交渉の合意は困難になる」と釘を刺してきた。それは本音だっただろう。

 今回の第1段階の合意にあたって、トランプ氏は香港デモについて「当初に比べてトーンが下がっている。数か月前に大勢のデモ参加者を見たが、今は人数が随分減った。そのうち、香港問題は自己完結的に解決するだろう」と軽く流した。これを見ると、やはり取引材料にされたように思えてならない。

 したがって、「香港人権法案」が米議会両院の本会議で可決されても、トランプ大統領がすぐに署名するかどうかは不透明である。そうした事情を踏まえて、トランプ氏を牽制する目的で民主党はトランプ氏以上の猛烈な反中姿勢を見せ、法案署名を迫る可能性も否定できない。そうなると、トランプ大統領はやむを得ず法案に署名するだろう。習近平氏には「民主党の圧力」のせいにすればよく、「ほら、俺以上に民主党の連中が反中だから、大統領になったら困るんでしょう」とすら言えてしまうのである。

 ここまでくると、さすがに中国も黙っていられない。トランプ氏との関係がどうであれ、約束を反故にしてもおかしくない。農産品も買わなくなったり、金融サービス市場の開放もやめたりして報復に乗り出すだろう。そうなると、中国は完全な悪人になり、米国の農民もウォール街も中国への怒りを爆発させ、挙国一致の反中体制を組み、最終的に中国を構造改革に追い込むと。

 現状を見るととてもそこまで事態の進展を待てないようだ。10月15日付けのウォールストリートジャーナルによれば、中国はさっそくも「第1段階」の合意について「更なる交渉が必要だ」と言いだしている。このままだと、「第1段階」の合意署名に至らない可能性も出てくる。

 気になる香港だが、やはり国際政治に翻弄され、ゲームの「捨て駒」となる宿命から逃げ出せないかもしれない(参照:『香港問題の本質とは?金融センターが国際政治の「捨て駒」になる道』)。

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