功罪相殺ありえぬ、中国の暗黒面を徹底批判

 私は中国の暗黒面を指摘し、批判することが多い。一部の人は、中国のここが悪いというと、必ず「いや、良いところもたくさんあるよ。良い人もたくさんいると」と返ってくる。

 これは、中国の汚職・腐敗役人の審判を想起する。巨額の汚職犯罪事実の指摘に対し、当人が過去に国に大きな貢献もしたよと、功罪相殺を求める。元鉄道部長の劉志軍の審判もまさにそれだ。功罪相殺は量刑上の問題であって、功があったとしても、罪の存在を抹殺することはできない。これは民主主義国家の基本である。

 悪を指摘されると、すぐに善を主張する。それは悪の存在への否定には決してならない。悪の存在事実からの逃避としか見られない。人間は生まれながらにして全悪の人間も全善の人間も存在しない。人間の中に、善と悪が共存している。それが環境や教育、そして制度といった外部要素の影響、さらに内なる教養の積み上げによって、多くの善が引き出されるか、あるいは多くの悪が引き出されるかが決まる。

 悪の暴露は、必ずしも悪の意図に基づくわけではない。逆に善なる心も存在する。中国のメディアでも最近どんどん中国の暗黒部を暴露している。中国はこのままでは世界の普遍的価値観から取り残されてしまうという懸念、国を愛する心に駆り立てられ、取った行動ではないだろうか。

 悪の暴露に対して、まず悪の事実の存在の有無を見てほしい。事実無根のねつ造なら、それは毅然として向き合って議論すべきだろう。逆にその悪が事実であれば、たた目を覆い、目線をそらすだけではあまりにも情けない。

 中国はきっと良い国になるという確信の持ち主であれば、あらゆる悪の事実から目線をそらさない勇気をもっているはずだ。善悪相殺で、悪に相殺される善は可哀想過ぎる。もっと勇気をもって悪の存在を正視してほしい。

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