批判排除の同調社会ニッポン、死して再生する歴史的転換点迎えよ

 私は実務家である。学界に興味をみち、ついに首を突っ込んだのは実務界よりも「アウフヘーベン」ができるからだ。少なくともそう思った。

 「アウフヘーベン」とは、「止揚」ともいわれ、主張や意見が互いに批判し、否定しながら、より高い段階、より高い次元に到達することである。「止揚」という日本語は、ある意見に対しそれはおかしいではないかと「止めて」、そこから議論し高くひらめき、高い段階・次元に「揚げる」ことを意味する。

 私が憧れ、尊敬していた学者たちは、まさにこの「アウフヘーベン族」だった。しかし、現実は違っていた。日本のなかに、批判を容認しない学者は1人や2人だけではない。某学者は、「余計な批判は必要ない」と堂々と発言した。私は、幻滅した。批判には「余計」があるのか、「余計な批判」とは何か、「余計でない批判」とはまた何か、批判を選別するのか。

 結局のところ、都合の良いものしか受け入れたくない。学界でも、「同調圧力」が強まり浸透し、批判まで選別し、拒否するとなれば、学問は死す。

 さらに酷いことがある。「批判を拒否する」という姿勢は、批判論の発信者の人格否定に立脚する。あの人(Who)が言うこと(What)だから、聞くに値しない、信用できないと。科学とは、「What」であって「Who」ではない。市井の庶民が興味本位で有名人のスキャンダル話に熱中するなら、理解できるが、学者まで「Who」に烙印を押し、「What」を封印するとなれば、それは学問を殺すも同然だ。

 「人格否定」の手法をみると、「失敗した」ことを理由にすることが多い。「失敗したヤツだから、その話を聞く価値がない」。失敗したからこそ、失敗体験を総括し、失敗の本質をえぐり出し、「アウフヘーベン」によって高次元に昇華し、成功を収める。世界を見渡して、そうした事例は枚挙にいとまがない。トランプ氏は事業に何回も惨敗しながら、大統領の座に上り詰めた人ではないだろうか。

 日本社会では、一度でも失敗したら、ただちに「失敗者」の烙印を押され、社会的存在そのものすら否定されかねない。敗者復活ルールの存在しないことが、日本社会の進化を妨害する要因になっている。失敗しないためにも、保身的になり、意見を躊躇い、同調に加担し、企業や国家が危機に直面しても、不作為に徹し、何があっても「想定外」や「未曽有」で片づける。

 学問の独立を誇りとするべき学者までも、このような俗世の風潮に同化され、社会や国家の明日、子々孫々の将来をまとめに議論できないとなれば、これほど悲しいことは、ほかにあるのだろうか。

 悲痛を通り越して憤りを禁じ得ない。日本社会の腐った秩序を一度徹底的に崩壊させなければ、おそらく軌道修正も再建もできない。ならば、コロナ危機はある意味でまさに宿痾一掃、日本再生の好機になりつつある、こう思えてならない。

 死して再生する歴史的転換点を迎えよ。

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コメント: 批判排除の同調社会ニッポン、死して再生する歴史的転換点迎えよ

  1. まったく同感です。日本の各界のエリート層に、高い志と見識・能力をもつ人材が多く輩しないと日本はもう悲惨なことになるのは間違いないでしょう。一度どん底にまでおちないと復活の道は無いのかもしれません。このままではもう日本社会はもたないのではないかと心配です。

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