コロナとの共存、テロとの共存

 近現代の世界史は、地球の紛争史でもある。大きく4段階に分けられる。

 第1段階は、主に国家対国家の銃砲による戦争。そもそも、「戦争」という汎用的意味はそこから来ているのではないかと。原爆という最終手段を見た日本人はさぞかし恐怖を感じ、それで戦争アレルギーになった。

 第2段階は、米ソ冷戦。「冷戦」と名づけられた時点で、「熱戦」と違って、戦争の含意がすでに変質していた。正確に言うと、「争」はそのままだが、「戦」の形が変わった。大国の元における代理戦争も盛んになった時代でもあった。

 第3段階は、対ゲリラ戦。冷戦終結後の戦争は、対「ゲリラ」になった。非正規戦闘という意味であっても、すくなくとも身元がはっきりしたゲリラがいたわけで、○○武装勢力類の呼び名もあった。

 第4段階は、今日にみられる対「テロ」戦争。最近のニュースには、「ゲリラ」という言葉すら出てこない(自然災害の「ゲリラ豪雨」しか出てこない)。いつのまにか、特に9・11以降、「テロ」全盛期を迎えた。

 古代から中近世・近代まで従来の戦争は、少なくとも勝敗がつくまで、善悪は定まらなかった。しかし、今日の対テロ戦争では、「テロ=悪、テロ以外=善」という構図が定着した。だから、戦争が終わらないのだ。

 「テロ以外」というわれわれの世界に欠けているのは、「テロ目線」だ。悪と断罪した以上、単に戦って撲滅しようとしても、撲滅などはできまい。テロの目線ないしテロの理論をよく分析する必要がある。

 ふと気づいたことがある。コロナがゼロにできないかもしれないといったら、人間は早速withコロナ、コロナとの共存を言い出した。では、「テロとの共存」という現実課題になぜ直面できないのか?アフガニスタンでは、テロとの関連性が高いタリバン政権ができた。だったら、これをきっかけにタリバンと付き合ってもいいじゃないか、というプラス思考をもつべきだろう。

 東西の冷戦を境に、世界はイデオロギー対立の時代を迎えた。問題は冷戦の終結。ソ連の崩壊をもって、なぜか共産主義というイデオロギーの敗戦が勝手に告げられ、世界が一斉に祝杯を挙げた。何ら総括もないままだ。

 共産主義が根ざしているところは、「階級闘争」という人間の闘争本能である。それは、マルクスの素晴らしい着眼点。「共産主義」の名に関係なく、争いの本質は変わらない。

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