酒飲んで地獄行きか?宗教の役割と「時代の戒律」

 マレーシアに移住してから知ったことだが、ムスリム(イスラム教徒)のなかに戒律を破って、酒を飲んだり豚肉を食べたりする人もいるという。特に上層階級やエリートほど戒律を破る人が多いようだ。

 そんなことをしたら、地獄に堕ちるよ。とはいっても、此岸(現世)で天国を味わい切ってから彼岸(来世)の地獄入りしても悔いが残らない。と、彼たちはそう考えているかもしれない。なるほど、一理ある。

 逆に、社会の低層にいけばいくほど、戒律をしっかり守っている敬虔な教徒が多い。彼たちは現世が地獄であるから、来世の天国を期待しているわけだ。しかし、来世に描かれた天国や地獄は果たして存在しているのか。そういう質問はタブーである。

 科学や哲学で証明されないものは、神学あるは宗教学に委ねられている。来世の天国や地獄は、存在していることも存在しないことも証明できないから、宗教の出番だ。宗教が定義や解釈をする。

 経済的に弱者を救済することができなくても、精神的な救済はできる。少数が大多数を支配する世の中は、被支配者の大多数に対する精神的救済が大変重要だ。それが宗教の役割である。無論、支配者自身が戒律をどう扱うか、その判断には相当の柔軟性がもたれている。

 宗教は支配のツールである。支配階級を引きずり降ろすための共産主義者は、無神論を唱える。それは理解しやすい。しかし、いざ共産主義者が支配階級になった時点で、彼らには宗教という支配ツールが必要でないかというと、そうではない。必要だ。

 共産主義者は世界を支配するために、まず「階級闘争」という伝家の宝刀を使う。マルクス時代の階級闘争とは、生産手段の所有に起源する社会的格差を克服するために行われる闘争だった。今の共産主義者は支配者であり、生産手段を有しているために、別の社会的格差を作り出さなければならない。昨今みられるLGBTQなども一例であり、新たに作り出された格差である。

 永遠に消えない格差(消えるなら新たに作り出せばいい)を解消するために、永遠に闘争が延々と行われる。現時の闘争が繰り広げられるうちに、気が付いたら、ポリコレという「時代の戒律」が出来上がった。アメリアの民主党などはとっくに共産主義者左翼に乗っ取られたとみていい。

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