クソクズの会社と社会、日本はこれで滅びる

 「クソ」「クズ」――最近、こんな用語を躊躇いなくよく使う自分の下品さに気づく。ついに先日、某学術系編集部から校正の赤ペンが入ったところで、私は反論する。「品位欠落は重々承知だが、それ以外に適語が思い浮かばないので、編集方針に反するなら寄稿を取り下げる」と校正を拒否した。最終的に要求が通って原文掲載になったけれど。

● クソクズはクソクズ

 これも最近、流行っているが、人類学者のデヴィッド・グレーバー氏が造った「ブルシット・ジョブ(bullshit job)」(不必要な仕事)という言葉。「bullshit」とは、うんこ、うんち、糞のことだから、上品とは言えない。しかし、それを的確に表現する言葉がほかにないのだ

 「不必要な仕事」は、本当なら英語で「unnecessary job」というが、まったくニュアンスの表現ができない。要するに「クソどうでもいい仕事」なのだから、やはり「ブルシット・ジョブ」が適語である。私はその文脈に沿って、以下のように「事」から「人」へと整合性と論理性を示すべく、新たな表現(名付けて「新・3K職場」)を造った――。

 「クソどうでもいい仕事を、クソ真面目にやるクズ」

 若者を中心に最近言われているのが、「真面目系クズ」という言葉だ。「真面目そうに見せるのが上手で、中身は腐っている」という人のことを指すわけだ。クソどうでもいい仕事を、クソ真面目にやっているのはやはりクズだ。ただ元凶は必ずしも本人でなく、クズを作り出したのは、腐りきったクズ組織「ブルシット・カンパニー」、「クソ会社」なのだ。

 会社はどうであれ、日本の技術は素晴らしい。決して「クソ」ではない。なのに、なぜ「クソ会社」と「クズ人間」が増えたのだろうか。少し掘り下げてみたい。

● 「クソ会社」と「クズ人間」の正体

 日本人が誇る日本の技術。その優位性は、「ファインチューニング」、つまり微調整で既存の技術を少しずつ改善し、製品の品質を良くすることである。しかし、戦略的な変革ができない。問題はどこなのか。日本人は決して馬鹿ではない。日本人は優秀な民族だ。画期的な発明をする力を十分にもっている。では、なぜ変革ができないのか?

 せっかく画期的なアイデアがあっても、それを実装することができない。全く新しいプラットフォームはいつまでも作り出せない。なぜだろうか?

 会社が新しくリソースを投入して何かアイデアを実装し、変革を起こそうとすると、まず、その会社の中の既存部署・当事者の「不利益にならないか」と考え、利害関係を調整しなければならない(「空気の醸成」ともいう)。調整できない場合は、変革を見送る。このプロセスをスキップすると、変革で不利益を蒙る、または蒙り得る部署・当事者は抵抗勢力と化して、変革を妨害してくるから、和が毀損する。

 これはつまり、「技術型課題」(事の問題)が解決しても、「適応型課題」(人の問題)が横たわっているからだ。後者が前者よりはるかに難しい。日本型の会社・組織は、仕事(ジョブ型)のためでなく、人(メンバーシップ型)のためのものだ。

 電気自動車(EV)やITの乗り遅れが好例だ。EVは十何年も前から日本企業がすでに技術開発に乗り出していたし、ITの開発くらいは日本企業にとってさほど難しい課題ではないはずだ。しかし、なぜできなかったのか。技術型課題でなく、結局適応型課題、人の問題だったからだ。

 社内・グループ内の利害関係に絡んみ、内部の権益構造が変わることで生じる対立を忌避する。同調、忖度、調整、空気、妬み、恨み、足の引っ張り合い、異端の抹殺、議論の回避、前例踏襲、「べき論」の唱和、既定方針の堅持、挑戦の回避、機会損失、生産率低下、見せかけ努力への評価、目的と手段の倒錯、失敗に対する不寛容、縁故、親和、癒着、部分最適、内輪庇護…。

 「クソどうでもいい仕事を、クソ真面目にやっているクズ」に評価基準を設定している日本の会社は、「クソ会社」である。

● クズでも生き残れるような国は滅びる

 社会も同じ。宮台真司氏いわく「クズでも生き残れるようなシステムは早く滅びてほしい」。まさにその通りだ。淘汰機能を失った社会そのものが淘汰される。それが今の日本。中国のせいでも何でもない。強敵に淘汰されるのは、自然の摂理。美学も倫理学も不要。

 「人間は、右か左かの問題ではなく、まともかクズかの問題だ」。宮台氏のこの一言に尽きる。右と左は付き合えるが、まともとクズは付き合えない。どっちがまともかどっちがクズかは重要ではない。重要なのは異種の生物だということだ。

 日本の右も左も9割以上が、クズだ。日本の劣化は、右のクズと左のクズによる合作だ。

 9割クズのためのメディアももちろんクズだ。「マスゴミ」とは、マスがゴミだということだ。そしてクズ有権者から選ばれた政治家もクズだ。前者が後者を批判するのは単なるクズ同士の罵りに過ぎない。後者が前者に迎合するのは単に1票のためだけだ。無論、その1票もただの紙クズ。

 福澤諭吉いわく「愚民を支配するには、迚(とて)も道理を以て悟すべき方便なければ、唯(ただ)威を以て畏すのみ」(『学問のすゝめ』)。まさに「独裁のすゝめ」でござる。福翁が健在なら、民主主義にボコボコに叩き潰されたか、キャンパスでズタズタに切りつけられたことだろう。

 このままいけば、日本は中国の属国になる。中国支配下ではクズも弱者も容赦なく淘汰される。淘汰を続ける独裁の中国だからこそ、強化し続けるのだ。自然の摂理であり、善も悪もない。

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