阿古智子氏「中国好きだが中国政府を憎んでいる」論について

 現代中国研究・社会学者、東京大学教授阿古智子氏に対する取材動画(VOA)。1時間近くの取材だが、内容はそれほど多岐にわたって複雑なものではない。要約するとこんな感じだ――。

 阿古氏は中国の文化、中国の庶民を愛しているが、中国政府を憎んでいる。理由は、中国政府が阿古氏の友人を含む人権派中国人弁護士や活動家、文化人を逮捕・弾圧しているからだ。

YouTube/VOA スクリーンショット

 取材は中国語で行われた。阿古氏の中国語は流暢だが、語彙力が高くないこともあって、緻密な表現ができていないように思える。さらに取材側も「聞き出す」力が不足していたため、取材全体が単調なものになってしまった。日本語で取材していたら、もう少し違っていたかもしれない。

● 内在的論理

 この取材を視聴した第一印象は、中国政府の論法に酷似していることだ。「日本の中国侵略は、軍部や日本政府が悪い。日本国民は善良で罪がない」。同じような論法はナチスに対しても見られる。「ドイツ国民は良い側、ヒトラー率いるナチスが悪い側」という善悪の二元論だ。

 二元論の色彩を強調したのは、西側メディアであるボイス・オブ・アメリカ(VOA)の意図的な編集によるものかどうか、判断は視聴者に委ねたい。世の中は果たして、善悪という対置される単純二元で片付けられるのか。答えは「NO」である。相対性があり、世の中はグラデーションであるからだ。

 作家・元外交官の佐藤優氏は「内在的論理」という概念を打ち出している。内在的論理とは、相手が物事を判断するにあたって何を重要視しているかという、価値観や信念の体系のこと。佐藤氏はウクライナをめぐる問題において、ロシアを一方的に「悪魔化」して思考を停止させるのではなく、その内在的論理を把握することが大事だと指摘している。
 
 内なる深いところにある価値観の根本、その人の行動における価値基準であり、 その人の行動を「その人そのものの価値観」 とたらしめるものである。一見不合理に見える制度や、おかしく見えることでも、一定程度継続的に続いている場合においては、そこに内在している論理がある。それは上手に自分で補助線を使って読み解いていく力が必要だと。

 自分たちと違う集団、自分たちから見ると異常なこと、残虐なことをしているように見える人たち(集団)がどういう理屈をもっているのか、それをきちんと理解するというのが「内在的論理」の原点である。しかし残念ながら、阿古氏は、ただ自分の集団に属する同志が抑圧されているから、そんな中国政府を悪として憎んでいるだけで、中国政府の内在的論理を理解していない、理解しようとしないように思える(そう見える)。

● ポリコレ

 ここまで言うと、阿古氏の読者や視聴者の多くはおそらく、「中国政府の手先だ」と躍起になって私を批判し、罵倒するだろう。いや、取材に阿古氏が中国政府の内在的論理云々語りだしたら、同じように阿古氏だけでなくVOAまで視聴者に批判されることになろう。世間ほとんどの大衆たる視聴者や読者は、本能的に二元論を酸素のように吸い込み、それと一体化しているからだ。

 中国共産党政権、中国政府の「内在的論理」を語り出した時点で、日本や西側社会で叩かれてしまうのは、脊髄反射的なポリコレにほかならない。大衆はそもそもこの手の理性に馴染まない。米国・西側もこの特性を利用して民主主義を絶対善と位置付け、自分に有利な秩序を築いたのである。これも立派な「内在的論理」に基づく。

● 人それぞれの内在的論理

 阿古氏は、人権を重んじ、人権派を弾圧する中国政府を憎んでいるという。では、アメリカが人権をどう扱っているのだろうか。

 イラク戦争を例にしよう。アメリカはイラクが大量破壊兵器を保有していると主張し、戦争に踏み切った。8年にわたる戦争で12万人の民間人を殺害し、戦争が終わってみると、大量破壊兵器は存在しなかったと。その12万人の人権はどうでもいいのか。もちろん、何もイラク戦争だけではない。阿古氏の論理からすれば、アメリカ政府も憎まなければならない。

 権威主義国家の中国は戦争をやらなくても、言論統制だけで人権侵害になる。他方で、民主主義国家のアメリカはたとえ戦争で数十万人の民間人を殺しても、それが正義だと、そんな論理は成立するのだろうか。いや、正義の問題ではない。アメリカだって「内在的論理」が存在しているわけだから。

 阿古氏ご自身にも「内在的論理」が存在しているだろう。あえてここで論ずることは止めておこう。

● 学者の内在的論理

 佐藤優氏の「内在的論理」は、人間同士が理解し合うための基盤だ。少なくとも、学者という知性の代表格なら、理解し実践しているはずだが、事実はそうなっていない。相手の内在的論理に無知、無関心、理解拒否ならば、残されるのは、戦いしかない。しかし、戦いという産業があって、その産業で稼いで財を築いている人がたくさんいる。学者を含めてだ。もちろん、彼らにも「内在的論理」がある。

 「戦い産業」は、厚い大衆客層を有している。幸せになっていない人たちには、誰か悪者、仮想敵が必要だからだ。この大衆の感情を煽動すれば、商売ができる。でも、それが国益にも大衆自身の個益にもならない。ただ「戦い産業」の利益にはなる。冷静になってウォッチすれば、「戦い産業」の業者と顧客の関係が見えてくる。

 最近、大学の教授がまるで社会活動家のような存在になった。学術や教育の中立性をどう考えているのだろうか。彼・彼女たちの学生が洗脳されて気の毒だ。

<次回>大学の教授、特定の政治的立場で学術の中立性は毀損しないか?

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