● 中国の統治モデルの優位性
中国は、理性による支配構造を基本としながら、感情の設計と制御にも着手しつつある国家である。統治の上層には計画と秩序、すなわち理性による設計思想があり、下層にはナショナリズムや承認欲求といった感情的共感を動員する装置がある。この二層構造は、権威主義国家における新しい支配モデルとして完成度を高めつつあり、民衆の暴走を抑制しながら、国家の方向性を計算可能な形で維持することを可能にしている。
一方、西側民主主義国家は感情によって制度が動かされる世界に突入している。SNSによる空気の支配、キャンセルカルチャー、被害者意識の連鎖といった現象は、もはや制度が感情に飲み込まれていることを意味する。本来、民主主義は理性に基づく熟議を前提としていたはずだが、現代ではその前提が崩れ、情緒と空気が政治を駆動する最大の原動力となってしまった。
このように、感情による社会動員と理性による制度設計が共存する場合、最終的に支配を制するのは理性である。大衆を感情で動かしても、そのエネルギーを設計・統制できなければ、統治は必ず瓦解する。したがって、感情と理性の両者を支配構造に取り込むことができる国家モデルが存在するとすれば、それは極めて強力な支配体制となる。
まさにそのモデルを具現化しつつあるのが、中国である。
そしてその存在は、西側自由主義国家の“思想的正統性”を根底から脅かすものである。なぜなら、「自由」や「権利」や「共感」といった情緒的価値を軸とした統治モデルが、自壊していく一方で、冷徹な合理性と統制に基づく統治モデルが成果を上げてしまえば、もはや誰も“自由”の正しさを証明できなくなるからである。
それゆえに、西側は中国を潰すしかない。それが対中包囲網、経済制裁、人権批判、AI・量子分野での規制・囲い込みといった一連の行動の根本動機である。中国の台頭が怖いのではない。中国という「統治モデルの完成度」が、自由主義の神話を破壊しうることが怖いのである。

● 日本型組織における不正と隠蔽
私は、日本型組織の内部において、不正とその隠蔽が静かに、しかし着実に進行していくプロセスを目撃している――。「上司の命令、会社の決定に従うだけだ」という言葉が常態化する中で、法は内部規範に凌駕され、倫理は組織内の空気に吸収され、責任は「組織」という名の霧の中に溶解していく。
私は、ハンナ・アーレントが語った「悪の凡庸さ(banality of evil)」が、いま目の前で見事に再現されているのを感じている。悪とは、特別な悪意や狂気によってなされるものではない。ただ、思考を停止し、命令に従い、責任を放棄する者たちによって、粛々と遂行されるものなのだ。
「淡々と」、である。
アウシュヴィッツ行きの列車を手配し、その運行を管理する人たち。ガス室の設計に取り掛かるエンジニアたち。死体処理に従事する技術者たち。ユダヤ人の名簿を管理する総務課のスタッフたち。彼らはいずれも、「悪事に加担している」という自覚を持たないまま、自分の職務を「淡々と」こなしていたに過ぎない。
この「自覚の欠如」こそが、凡庸な悪の本質であり、だからこそ悪は日常の中に深く根を張る。
現代の日本的組織は、それに極めて近い構造を温存している。命令は絶対であり、空気が判断を支配し、責任は上にも下にも流れていく。個人の思考は無力化され、「従順さ」が美徳とされる文化の中で、悪は日常業務に溶け込み、善意の顔をして組織を蝕んでいく。そして、それに気づかないまま沈黙し、加担し、共犯者となっていく者たちが、今日もまた「淡々と」仕事をこなしている。
● 「安倍晋三研究センター」と知的堕落
台湾の政治大学は5月24日、「安倍晋三研究センター」を9月21日に設置すると発表した。「安倍晋三研究センター」に見る3つの問題点を挙げたい。
① 「安倍晋三研究センター」という名称自体に、特定の政治家を歴史的人物としてではなく思想的ブランドとして礼賛する傾向があるなら、それは学問ではなく政治的表象である。
② 大学がこのような動きに関与することで、学問の名を借りた“準政府機関的シンクタンク化”であり、政治的機関と言われてもしかたない。
③ 学術の中立性の喪失と学問の堕落。たとえば、「安倍晋三研究センター」がその名のもとで、安倍批判の研究を行えるだろうか?否。名称そのものが研究の方向性・言論空間を規定してしまうため、センター内での自由な知的対話は抑圧されるのが目に見えている。
学問とは、社会や政治と緊張関係をもちながらも、あくまで真理探究の場であるべきである。それが、政治的立場の「正しさ」を補強する道具とされ、大学という場が“知の正当性”を政治に与える免罪符になっているとすれば、深刻な知的堕落である。
● 「シナ」を口にする承認乞食
承認乞食ーー。
「中国」という正式名称を使わない人たち。「シナ」と呼ぼうが「チャイナ」と言おうが、どうせその言葉の使い方で自己顕示、承認乞食したいだけだろう。
符号を掲げて、自分は“本物の保守”だと演出し、似非保守仲間から拍手喝采をもらいたい。それは保守思想でも何でもない、ただの乞食級の承認欲求の発露だ。「愛国者ぶって中国をシナと呼ぶ俺、かっこいいだろ?」――その実態は、国家も歴史も哲学も自分のアイデンティティも、ロクに咀嚼せず、言葉遊びにうつつを抜かすだけの群れの一部。
その群れの正体は、思想ではなく空気で生きている連中だ。風向きが変われば「中華人民共和国様」とでも言い出しかねない。そういう者たちの“反中”も“保守”も、軽くて、薄くて、軽薄で、音だけは大きい。口だけで戦ってるつもりの彼らが、本当のリスクも痛みも引き受ける覚悟など、あるはずもない。
中国のことを「シナ」と呼ぶ人たち。私は彼らを符号型似非保守と呼ぶ。思想でも歴史認識でもなく、「シナ」という言葉を使うことで自分の保守性を誇示したいだけの人間たちだ。
私は「シナ」が蔑称かどうかなどという議論には乗らない。私が問うのは、なぜその言葉を使うのかということだ。すると彼らは、こう反問する――「蔑称じゃないから、なぜ使っちゃいけない?」
それは答えではない。ただのすり替え。「なぜ使うか」には沈黙し、使う“権利”だけを主張する。つまり彼らは、「保守」というイメージをまといたいがために、「シナ」という言葉を使っているのだ。理由はシンプルで、見せたいから。思考でも判断でもない。露出狂の痴漢と同じ構造だ。痴漢が「見せることで快感を得る」ように、彼らも「使うことで満足する」
相手の受け止め方や文脈など、どうでもいい。自分が見せたこと、自分が快感を得たこと――それだけが問題意識の中心。つまりこれは「思想」ではない。自慰である。言葉の使用を通じて、自己満足に浸りたい、それだけのこと。それが“保守”の皮を被った、薄っぺらい承認欲求の正体だ。
最後に石原慎太郎の「シナ」呼びに触れてみたい。石原のこの姿勢は、大衆向け符号操作を使いつつも、「単なる感情的反中」ではなく、「文化防衛」「言語主権」「政治的反骨」といった一見高度な“意味づけ”をしている点である。だが本質的には、やはり「見せる」「(信者を)集める」ための選択である点に変わりはない。違いがあるとすれば、石原は「見せ方」に少々芸があった。
符号型似非保守がただ“見せて気持ちよくなる”痴漢なら、石原は「演出付きのストリップ」で拍手喝采を狙うプロのパフォーマーだったとも言える。




