<雑論>AIの浸透に伴う日本人1000万人の失職 / 政治家の下半身問題と大衆の上半身問題 / 憲法9条は無意味 / 天安門事件の鄧小平は正しかった / 働かざる者食うべからず

● AIの浸透に伴う日本人1000万人の失職

 『AIがエンジニアだけでなく、CEOなどすべての仕事を奪う「ディストピア」が迫っている…元グーグル幹部が警告』。――グーグルの元幹部であるモー・ガウダットによると、AIは開発者だけでなく、ポッドキャスター、さらにCEOの仕事すら奪うという。彼はAIがホワイトカラーの仕事を奪う「短期的なディストピア」が迫っていると警告した。

 2020年代後半には「ホワイトカラー労働の終焉」。主に肉体労働に影響を与えたこれまでの技術革命とは異なり、この自動化の波は、現代経済の屋台骨を形成する高学歴の専門職や中産階級の労働者をターゲットにする。

 私の予想では、AIが浸透すれば、日本人1000万人規模が失職。理由は3点ある。

1. 対象職種の裾野が広い
 事務職や一般管理職だけでなく、法務・会計・人事・営業支援・カスタマーサポート・翻訳など、AIに置換可能な知的労働領域は非常に多い。これらの職種を合算すると、日本の労働人口の15〜20%に相当する規模になる。

2. AIは一度導入されれば急速に浸透する
 初期は補助的に使われるが、精度向上と業務フローの最適化が進むと、「1人+AI」で従来の数人分の仕事が可能になる。経営側は人件費削減圧力から自然に人員削減へと動く。

3. 再雇用や再配置の受け皿が少ない
 少子高齢化・国内市場縮小の日本では、新たな雇用創出力が弱く、失職者がAI非代替の新職種へ移動しにくい。結果として、失業が一時的ではなく構造的に固定化する可能性が高い。

 つまり、「1000万人失職」という数字は極端に聞こえるが、AI普及と雇用再編が同時並行で進行すれば、統計的にも現実的なレンジに入ると考えられるである。

 日本人ファーストを掲げるのであれば、外国人排除よりも先に、AI排除こそが真の「ファースト」であるべきである。

 インドIT業界の事例が示す通り、AIの普及は短期間で数十万人規模の雇用を奪い、中間層の生活基盤を直撃する。これは低賃金労働の移民流入による影響よりもはるかに広範かつ即効的である。

 よって、日本人の雇用と生活を守るという「日本人ファースト」の理念を本気で貫くならば、まずはAI導入の速度や範囲を制御し、必要な規制や再教育制度を整備することが第一義である。外国人排除を叫ぶ前に、国内の人間の仕事を奪う最大の存在――AIにこそ、優先的に向き合うべきである。

● 政治家の下半身問題と大衆の上半身問題

 政治家の不倫を問う前に、政策の提案力と実施力を問うべきだ。だいたい他人の下半身を問題にするのは、上半身が不自由する(頭が悪い)輩である。

 不倫問題に対する批判とは、本来、当事者の配偶者や家族に属するものであり、赤の他人が声を荒げて参入する性質のものではない。婚姻関係とは法的にも倫理的にも当事者間の契約・信義に基づくものであり、その破綻や背信行為に対する批判権限は、まずもって直接の当事者に限られるべきである。

 他人がそこに乗じて道徳的優越感を発揮したり、世間的制裁の先兵を担おうとするのは、自己の鬱屈した感情や承認欲求の代償行為にほかならない。とりわけメディアやSNSにおける不倫叩きは、「公共の関心事」という大義を装いながら、実際には他人の私生活に土足で踏み込む集団的 覗き見欲に過ぎない。ここには道徳などなく、あるのは「自分は安全地帯にいながら他人を石で打てる」という快楽構造である。

 ゆえに、不倫の是非以前に、その批判が誰によって、どの立場からなされているかを問うべきである。他人の不倫に過剰に反応する社会こそが、不倫よりも病んでいるのである。

 他人の女性問題を声高に批判する者の多くは、往々にして、自らが女性を惹きつけ、不倫に至るだけの財力も、権力も、魅力も、胆力も持たない「有欲無力」の男である。

 欲望だけは一人前でありながら、現実には何ひとつ行動に移すことも叶わず、他者のスキャンダルを糧にして、あたかも道徳の高みに立ったかのように振る舞う。その実、批判とは嫉妬の仮面であり、道徳とは無力の言い訳にすぎない。

● 憲法9条は無意味

 憲法9条をめぐる論争は、もはや無意味である。なぜなら、日本は「戦争を放棄した国」ではなく、そもそも「戦争ができない国」だからだ。ここにあるのは主観的な「しない」という意思ではなく、客観的な「できない」という現実である。

 それはまるで「もし1億円が当たったら、絶対にパチンコには使わない」と誓うに等しい。そもそも当選しない以上、その誓い自体が虚しいからだ。経済の実態を見よ。日本は対中依存を不可逆的に深めており、戦争になれば、敵弾で倒れるのではなく、補給が途絶え飢餓で倒れるだろう。銃弾よりも物流が、日本にとって致命的な戦略資源なのである。

 戦死より餓死。

● 天安門事件の鄧小平は正しかった

 私はある意味で、天安門事件の学生鎮圧は間違っていると思わない。天安門事件において仮に学生たちが勝利し、中国が西側型の民主化を実現していたとすれば、その後の中国は必ずしも繁栄の道を歩んだとは限らない。

 むしろ、ロシアのように混乱と衰退の道を辿った可能性すら否定できない。ソ連崩壊後のロシアは、急速な民主化と市場化の中で統治能力を喪失し、経済の崩壊、オリガルヒの跋扈、国民生活の困窮を招いた。選挙制度の導入は形式的なものであり、制度的基盤が脆弱なままでは民主主義は機能しないという教訓を残した。

 中国においても、1989年当時の制度的・文化的未成熟のまま西側的な民主主義が導入されていたならば、分裂と腐敗が蔓延し、国家統合すら危ぶまれたであろう。天安門の学生たちが求めた「民主」は、制度としての深い理解に基づいたものではなく、統治者に対する感情的な怒りと自由への憧れが先行していた。

 権力分立、法の支配、制度的均衡といった民主主義の骨格についての認識は乏しく、形式的輸入による制度崩壊のリスクすら内包していたと考えられる。

 天安門事件の武力鎮圧は、倫理的には肯定されるものではない。しかしながら、政治的・国家的安定を確保し、改革開放の継続と経済発展の基盤を守ったという歴史的結果もまた否定できない事実である。短期的な人権侵害と引き換えに、長期的な経済的成功と国家統合が達成されたという見方も可能である。

 したがって、天安門事件を「善の学生」と「悪の政府」という単純な構図で捉えることは誤りである。同事件は、「未成熟な民主幻想」と「開発独裁の実利主義」という二つの近代化モデルの衝突として理解すべき歴史的転換点であった。善悪の二元論ではなく、国家形成と制度設計という現実主義的視座からこそ、天安門の意味は再評価されねばならない。

 鄧小平は正しかった。

● 働かざる者食うべからず

 新自由主義は一度も日本に上陸したことがない。日本は、偽弱者までも保護する真正社会主義国家である。生活保障という名の下に、怠惰な者までが温存され、結果として国家の生産力を毀損しているのである。よって、無職者を工場や農村やサービス現場、いわゆる3K職場に強制的に送り込み、労働を課すべきである。拒否する者は餓死してもらうしかない。

 この一次フィルタリングによって、初めて「本物の弱者」が浮き彫りになり、救済対象を確定することが可能となる。救済は原則として現物給付とすべきである。食料は賞味期限間際のものを与え、娯楽や嗜好品の消費は制限されなければならない。パチンコや飲食店の利用には「非生活保護者証明」の提示を義務づけ、さらに顔認証システムを導入することによって生活保障者の消費を統制することができる。

 これを徹底すれば、安価な外国人労働力の需要は自然と減退し、日本人による労働再配置が進むだろう。ただし、これらの施策を実施するためには、職業選択の自由の制限、強制労働の合法化といった措置が不可欠である。したがって、前提条件として、民主主義制度の一時停止が必要である。

 30年も給料が上がらない理由は明白である。日本は、生産性を持たない者、クビにすべき者、餓死すべき者までも雇用し、養い続けているからである。その結果、真に働く者の取り分は削がれ、全体の賃金水準は押し下げられてきた。能力なき者の温存は、資源の浪費であり、社会的コストの増大である。これこそが日本における最大の不公平であり、30年停滞の根源的要因である。

 「働かざる者食うべからず」は、社会の根源的な秩序原理を示す言葉である。生存の権利を主張するのであれば、まず生存に必要な労働を担う責務を果たさなければならない。労働と給付は不可分であり、その断絶は社会全体の不公平と停滞を生み出す。日本が長期にわたり低賃金と停滞に苦しんでいるのは、この原則を曖昧にし、働かぬ者までも救済する仕組みを制度化してきたからである。

 義務なき権利は堕落を生み、責任なき保障は社会を蝕む。ゆえに、働かざる者食うべからずという鉄則を社会契約の基盤に据え直すことが不可欠である。

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