<雑論>貧困層はなぜ保守へ逆流するのか? / 移民社会と靖国参拝 / 日本人の議論忌避と自己批判拒否 / 奈良の鹿が泣いている / 自然体の美学

● 貧困層はなぜ保守へ逆流するのか?

 (似非)保守層に貧困者が多い。貧困層は経済基盤において不利な立場にある。資本と労働市場の構造的制約により、彼らが主体的に自らの境遇を変革することは困難である。本来ならば、この不利な階級的位置はリベラル的変革志向を生むはずである。

 しかし現実には、貧困層は変革を求めるよりも、伝統や宗教、ナショナリズムといった上部構造に身を委ねる傾向を示す。経済的基盤を動かせないという無力感が、文化的共同体への帰属欲求を増幅させるのである。ここに、下部構造が規定するどころか、上部構造が逆に支配するという現象が生じる。

 支配層は自らに不利な階級闘争を回避するために、上部構造を巧みに利用する。宗教的物語、民族的アイデンティティ、防衛的ナショナリズムといった装置は、貧困層の不満を「秩序維持」へと転化させる。この過程こそが虚偽意識の典型である。

 貧困層が保守イデオロギーに取り込まれると、その投票行動や制度支持は再び下部構造に跳ね返り、経済的基盤の固定化をもたらす。かくして「下部構造が上部構造を規定する」という一次的な因果は、「上部構造が下部構造を再生産する」という循環構造へと逆転する。

 グローバル化や技術革新の時代において、貧困層は変革を志向すべき合理性を持ちながら、実際には不安定を避け、安定を保証する物語へと引き寄せられる。彼らにとって経済はどうしようもなく、上部構造だけが残された拠り所なのである。

● 移民社会と靖国参拝

 日本社会は、3%という少数の移民にすら強い脅威を感じる。だが冷静に考えるなら、移民を排除すること自体がより大きな脅威をもたらす。労働力不足、人口減少、産業空洞化、国際的孤立、これらは移民の存在によって部分的に緩和されているからである。

 移民受け入れによるリスクとは、同質性依存の精神構造が動揺することである。一方、移民排除によるリスクとは、社会そのものが物理的に維持できなくなることである。前者は心理的動揺にすぎないが、後者は制度崩壊と経済衰退を直撃する。どちらが本当の脅威かは明白である。

 この構造は組織政治にも同じく見られる。新しい思考を導入すれば、既存派は過剰反応し、秩序が乱れると恐れる。しかし新しい思考を完全に排除すれば、組織は硬直化し、競争力を失い、最後には衰退する。すなわち、変化を受け入れるリスクよりも、変化を拒むリスクの方がはるかに大きいのである。

 要するに、日本社会と日本企業は「移民受け入れ」と「移民排除」という二つのリスクを天秤にかける必要がある。そして実際に致命傷をもたらすのは、異質なものに怯え、排除し、結果として自壊に至る構造である。

 高市早苗氏が総理になった場合の靖国参拝は、移民問題と同型の構造を持っている。参拝すれば保守層の支持を得るが、国際摩擦を招く。参拝を控えれば外交摩擦を避けられるが、国内保守層からの信念欠如を非難される。いずれにせよ、選択肢の双方に強烈なインパクトがあり、政治家は「どちらの摩擦を引き受けるか」を迫られるのである。

 移民問題と同じである。この二重リスク構造において重要なのは、政治家や社会が「リスクゼロ」という幻想を捨てることである。

 靖国参拝も移民政策も、選択した瞬間に必ず誰かを敵に回す。問題は敵の数を最小化することではなく、どの敵を選び、どの摩擦を自らの力に転化できるかという冷徹な戦略判断である。靖国参拝にせよ移民受け入れにせよ、日本の政治的課題は「するかしないか」ではなく「どのインパクトを担保にするか」である。

 にもかかわらず、日本社会は常に「正しい選択がある」と信じ込み、選択の代償を直視しない。繰り返しているが、結局下部構造の経済が上部構造のイデオロギーを規定する。マルクスの理論は正しいが、日本人に嫌われている。

● 日本人の議論忌避と自己批判拒否

 日本人の出自は農耕民族である。農耕民族のルールは千年不変という自然のサイクルに基づき、変化を許さない。批判はすなわち共同体の否定であり、議論は人格攻撃と同義になる。だから「異論を唱える者」は排除され、「沈黙と同調」こそが美徳となる。

 さらに滑稽なのは、日本人が狩猟民族的な行為を「悪」と決めつける点である。狩猟民族が議論を繰り返し、戦略を練り、瞬時に判断して動くと、日本人はそれを「自己中心的だ」「和を乱す」と糾弾する。競争に勝つことすら「ずるい」「卑しい」と非難する。

 要するに、日本人は「議論しない自分」を正義とし、「議論する他者」を悪とする倒錯構造に生きているのである。会議で異論を唱える人間は「協調性がない」と叩かれ、政治で強いリーダーシップを見せる者は「独裁者」と呼ばれる。

 こうして農耕民族は「議論否定」を美徳に変換し、狩猟民族の行動原理を「悪徳」と断罪する。だが現実には、その価値観こそが自滅の原因であり、競争社会での敗北の根源なのである。

 日本人は今日も「和」を守るために議論を避け、他者を悪と罵りながら、安心して全員無理心中という滅びの道を歩んでいる。

 魯迅は『阿Q正伝』『狂人日記』などにおいて、中国人の劣根性を痛烈に批判し、その精神が民族の文豪として評価されてきたのである。魯迅の筆は、自己欺瞞、事大主義、無責任、被害者意識の裏返しといった中国人社会の暗部を容赦なく照射し、民族そのものをえぐる自己批判の文学であった。

 これに対して、日本文学史において、民族全体の劣根性を同等のレベルで暴き出した作家はほとんど存在しない。日本文学の主流は、自然賛美、心情の機微、美意識の表現に傾き、民族批判の精神はきわめて弱い。農耕民族的な議論忌避の文化的土壌が、徹底的な自己否定を排除してきたのである。

 例外的に近いものとしては、夏目漱石が日本人の自己確立の欠如を語り、太宰治が人間存在の弱さを描き、三島由紀夫が戦後日本の精神的空洞化を「腑抜け」と断じて自死をもって警鐘を鳴らしたことが挙げられる。また、文学の領域を越えれば、丸山眞男が「無責任の体系」を批判し、福沢諭吉が日本人の後進性を痛烈に糾弾したことも魯迅的精神に通じる。

 しかし、それらはいずれも部分的な批判にとどまり、魯迅のように民族そのものの劣根性を全面的に描き切り、国民的合意を得て「民族の文豪」とされた存在は日本にいない。むしろ、その不在こそが、日本人の議論忌避と自己批判拒否という民族的欠陥を証明しているのである。

● 奈良の鹿が泣いている

 マナーの悪い外国人観光客が鹿を蹴る。奈良の鹿が泣いている。

 しかし、泣かされているのは外国人観光客の靴先ではなく、総理候補を自称する政治家の口先によってである。高市早苗氏は総裁選の檀上に立ち、「奈良の女」と名乗り、鹿を蹴る外国人に憤慨してみせた。なるほど、国家の行く末を論ずる場であるはずの舞台は、一瞬にして「奈良公園観光案内所」へと変貌した。

 彼女の言葉に浮かぶのは、日本経済の衰退でもなければ外交安全保障の青写真でもない。万葉集と鹿の夫婦仲だ。これでは国家百年の計どころか、鹿せんべい三枚分の視野である。国を率いると宣言する人間が、鹿を蹴られることを「日本の危機」と断ずる姿は、国民に「この国の危機管理能力は奈良の鹿並みか」と疑念を抱かせる。

 市議会議員が地元の公園美化を叫ぶならまだ理解できる。だが、総理候補が鹿を語り、神社の鳥居を語り、外国人観光客のマナーを語るとき、日本国家は確実に矮小化される。国を背負う覚悟があるはずの演壇で、語られるのは「鹿の平和」。まるで牧歌的ユートピアの村長選挙である。

 さらに滑稽なのは、元迷惑系ユーチューバー「へずまりゅう」を連想させ、本人からも反応を引き出してしまったことだ。総理候補が迷惑系の延長線に見える。政治の品格がここまで地に落ちると、鹿すら角で突き返すだろう。

 鹿を蹴る外国人を非難する前に、日本の国家ビジョンを蹴り捨てていないか。高市氏の演説は、日本を守るのではなく、日本を小さく、滑稽に、観光パンフレットの挿絵程度に縮める。彼女が守ろうとしているのは「奈良の鹿」ではなく、自らの無内容を隠すための小道具にすぎない。

 結論は単純だ。鹿は奈良の宝だが、鹿しか語れぬ者に日本の舵取りは任せられない。鹿に寄り添う総理ではなく、日本を導く総理を、国民は待っている。

● 自然体の美学

 現代の「若さ」や「美しさ」は、ビジネスによって作られた虚構にすぎない。髪を染め、肌を引き延ばし、歯を白くし、写真を修正し、老化を欠陥とみなす。そこには「恐怖を煽り、商品を売る」論理しか存在しない。

 私はその逆を選ぶ――。白髪も、しみも、肌のたるみも、歯の黄ばみも、いずれも自然の摂理。抗わず、偽らず、ただ清潔を保つ。写真も修正しない。

 物理的な「見られ方」も「見せ方」も気にしない。ただただ精神的・知的成熟に打ち込む。肉体は老いる。しかし精神と知は成熟する。両者は常に均衡し、差し引きゼロで進む。だからこそ私は、自然の摂理を尊重する自然体の美学を信じている。

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