● 一般人には「資本を持たない」構造
資本主義の本質とは、資本家が一般人による「資本の本源的蓄積」を構造的に阻止することにある。
本来、誰もが資本を蓄積し、自己の生産手段を持てば、労働市場における従属的立場から解放されうる。しかし資本主義体制は、一般人が「資本家」へと転化する可能性を、制度的かつ文化的に封じ込める仕組みを持つ。
その最も巧妙な手法が、「消費」である。
労働によって得た所得が、再生産手段や資産形成に向かわず、日々の消費に吸収されるよう設計されている。広告、ライフスタイル、教育、金融制度、すべてがこの「消費文化」に奉仕している。すなわち、稼いだ分だけ使い切らせ、資本の蓄積を不能にすることで、人々を永続的な賃金労働者に留め置く。
この構造において、消費とは快楽ではなく、隷属の装置である。消費、さらに「身分不相応の消費」を通じて、人は自由を享受しているかのように錯覚するが、実際には資本の側に利潤が再流入する循環が出来上がっている。消費とは、資本を手放す行為であり、蓄積の否定である。
つまり、資本主義の持続条件とは、一般人に「資本を持たせない」こと、そして「持とうとすら思わせない」ことである。
● 「資産」と「年収」のトリック
「本源的蓄積」の可能性を封じること、それこそが資本主義の静かなる暴力である。
日本社会では、「資産」ではなく「年収」を個人の評価基準とする傾向が強い。就職、結婚、ローン、社会的地位の指標としても、年収は繰り返し強調される。それはなぜか。この「年収偏重」は、資本主義体制の核心的目的――すなわち、一般人による「資本の本源的蓄積」を阻止するという目的に、極めてよく適合している。
年収とは、あくまでも「労働力の売却によって得られる収入」であり、資本そのものではない。資本とは、自己が所有する資産が自己の労働によらずとも収益を生む仕組みのことである。にもかかわらず、日本では「資本」ではなく、「年収」こそが成功や努力の証とされる。これにより、人々の関心は資本の蓄積ではなく、より高い労働報酬=年収の追求に向かう。
この構図によって、人々は一生涯を通じて「よりよく稼ぐこと」に駆り立てられ、「よりよく蓄えること」「よりよく所有すること」には関心を向けさせられない。しかも高年収者ほど、時間とエネルギーを仕事に拘束される傾向が強く、結果として資本の形成や運用に割く余力を奪われている。
つまり、日本社会における「年収偏重」は、資本を持たせないための文化的装置である。それは、資本主義体制における統治の技巧であり、資本と労働の構造的非対称を固定するための思想的な枠組みである。年収の高さを誇る者ほど、実は資本の支配から最も遠ざかっているという皮肉な構造が、そこにある。
● 「税」と「消費」と「資産」の関係
労働者は消費するために納税する。
資本家は節税するために消費する。
労働者は資産を削って消費する。
資本家は消費して資産を増やす。
現代の税制度において、労働者と資本家の「消費」の意味は、まったく異なる原理によって成立している。
労働者は、まず働いて所得を得る。そこから税を天引きされ、残った可処分所得の範囲内で生活費や娯楽、教育、住宅といった消費を行う。言い換えれば、労働者は「消費するために納税している」。納税が先、消費は後である。
一方、資本家は仕組みが逆である。法人や個人事業体を通じて支出を「経費」として計上し、課税所得を圧縮する。高級車も、海外出張も、接待費も、すべては「業務上必要な支出」として経費化される。すなわち、資本家は「節税するために消費している」。消費が先、納税は後である。
この構造において、「消費」という行為そのものが、労働者には「個人の支出」であり、資本家には「事業の戦略」なのである。表面的には同じ消費行動に見えても、税制上・制度上・再生産構造上、全く異なる経済的意味を持つ。
すなわち、労働者は可処分所得を削りながら消費を行い、資本家は課税所得を削るために消費を行う。言い換えれば、労働者は資産を削って消費する。資本家は消費して資産を増やす。
この非対称こそが、資本主義における階級差の核心であり、「資本の本源的蓄積」を阻む見えざる壁の一部である。税とは本来、公共の再分配手段であるはずが、制度的構造によって再生産の格差を拡大する装置に変質している。ここにこそ、労働と資本の根本的なルールの違いが露呈するのである。





