● 外国人に持っていかれた富
外国人労働者による本国送金が、2025年にはついに1兆円規模に迫るという。わずか半年で38%増。額としては小さく見えるかもしれないが、その象徴性は大きい。つまり、日本の労働の成果が、国内で循環せず、海外に流出しているということである。もし日本人がその仕事を担っていたなら、その賃金は国内に残り、消費や投資に回り、多少なりとも経済を潤したはずだ。
しかし現実には、日本人はその労働を嫌がり、外国人が汗をかき、その汗の結晶は送金という形で海外に消える。結果、日本国内には「労働力不足」という言い訳と、「経済が低迷している」という愚痴だけが残る。
風刺的に言えば、日本は「汗をかくこと」をやめてしまった社会である。農耕民族よろしく「みんなで協調」ばかり唱えながら、田畑には人影がなく、代わりに外国人が黙々と働いている。彼らの賃金は海外の家族を潤し、日本の村にはただ祭囃子のような「頑張りましょう」の掛け声だけが響く。
ならばどうすべきか。いっそAIに任せればよいではないか。AIは文句も言わず、24時間働き続ける。日本人はホワイトカラーの幻想を捨て、ブルーカラーに立ち返ればよい。だが現実は逆である。ホワイトはブルーに転じるどころか、「AIに仕事を奪われる」と嘆き、ブルーカラーの労働は外国人に任せる。この二重の逃避の結果、日本社会は「働かない民族」として縮んでいくのである。
要するに、日本の労働構造はこうだ――
汗をかくのは外国人。
汗の結晶(カネ)は海外へ。
汗をかかない日本人は、エアコンの効いた部屋で「経済が低迷している」とニュースを見ながらため息をつく。
これこそ「働かざる者、青ざめるべからず」の現代版である。日本人ホワイトがブルーに転じる覚悟を持たぬ限り、この国の経済は青息吐息のまま沈んでいくであろう。
● 「勤勉民族」から「不労民族」へ
日本人は、
肉体労働を外国人に奪われ、
知的労働をAIに奪われる。
にもかかわらず、口を開けば――
「外国人を排斥せよ、日本人ファーストだ」
「AI?そんなものはまだまだ信用できない」と叫ぶ。
かつて日本人は「勤勉民族」と呼ばれた。額に汗し、日夜働き、敗戦からの復興を支えたのは、まぎれもなくその勤勉さであった。今や日本人は、勤勉の対象を失い、勤勉を実践する機会すらなくなっている。こうして「勤勉民族」は「勤勉できない民族」となり、最終的には「不労民族」へと変質する。
「不労」は本来、恐れるに足らない。もし「不労所得」が潤沢にあれば、それはむしろ理想の境地である。汗をかかず、頭を使わず、資本が資本を生む――これぞ資本主義の果実である。しかし現実の日本人が直面している「不労」とは、資本に裏打ちされた「不労所得」ではなく、ただの「労働喪失」である。
ついには「不労無得民族」となろうとしている。
● 資本主義の敗者
日本人は、資本主義における典型的な敗者である。歴史的に投資を恐れ、資本蓄積よりも「労働」を美徳としてきた。資本を運用するよりも、額に汗することを尊び、働いた時間の長さを誇る。そこに「勤勉民族」という神話が築かれた。
しかし資本主義の本質は「資本が資本を生む」という単純なメカニズムである。世界の成功者たちは、この仕組みを最大限に利用し、不労所得を増やすことでますます富を拡大させた。
一方、日本人は「働くこと」そのものに価値を見いだし、労働を宗教化した。結果、日本人は「投資をしない資本主義者」となり、「資本を持たない勤勉労働者」として搾取され続けた。そして21世紀に入り、外国人が肉体労働を、AIが知的労働を代替すると、日本人はついに「勤勉の舞台」そのものを失ったのである。
こうして日本人は、資本家にもなれず、労働者としても不要になり、ただ「勤勉だった」という過去の記憶にしがみつく民族となった。勤勉神話はもはや精神安定剤にすぎず、実体のない「自己肯定の物語」と化している。世界が資本の論理で動く中で、日本人は「働くこと」を目的化したがゆえに、資本主義のゲームから脱落した。
投資を恐れ、労働を神格化し、その労働すら奪われた今、日本人が残された役割は「資本主義の敗者」という歴史的見本である。





