私はよく「洗脳された愚民」と言う。
多くの人はこの言葉に無言な反発を覚えるだろう。この表現を私は軽蔑の意図で使っているのではない。むしろ「愚民」とは、社会の中で最も合理的に生きている人々のことを指す。彼らは同調し、信じ、従うことによって集団から利益を得ている。社会秩序の維持に必要な「機能的人間」なのである。
マルクスは、経済的下部構造がイデオロギー上部構造を規定すると説いた。すなわち、物質的生産の仕組みが人間の思想や信念を形づくる。現代社会では、金銭・雇用・メディア・アルゴリズムが下部構造であり、それに従属する意識が上部構造である。ゆえに、人々が似たような価値観を持ち、同じ方向に流されるのは当然のことである。洗脳とは、社会を機能させるための構造的必然である。
一方で、洗脳されない人間――すなわち、思考の自立を志す者は、構造の外に立とうとする。その瞬間、社会・集団からの同調的庇護を失う。帝王学とは、本来この「非洗脳者の孤立と代償」を前提にした学問である。95%の人間が洗脳可能者であるからこそ、残り5%の非洗脳者は、自由と引き換えに経済的・社会的損失を受け入れねばならない。
私自身がその一例である。顧客でさえ私を嫌うことがある。なぜなら私は、彼らが安心して浸っている構造の外側から語るからである。しかし、嫌われることは恐れるに足らない。むしろ、嫌悪の中にこそ真理の反応がある。洗脳とは社会の潤滑油であり、非洗脳とはその構造を映す鏡である。
それでも、95%に属しながらも、5%を志したい人がいる。「愚からの脱却」そのものに莫大な苦痛と代償が伴うことを覚悟していなければ、やめた方がいい。
まずは、自分が「愚」であることをしっかり認めることから第一歩を踏み出さなければならない。それは多くの人にとって「自己否定」にあたり、耐えがたい苦痛となる。「無知の知」とは、ソクラテスが提唱したその覚悟の哲学である。その覚悟がなければ、結局損を引き受けずに得だけを求めることになり、道は開かれない。
だから私は言う。「洗脳された愚民よ、あなたたちは社会を支える賢者である。ただし、私のような愚か者が外からあなたたちを見ていることを、どうか忘れないでほしい」
はい、その通りである。「愚」と「賢」も相対的である。私のような5%の人が経済的利益の損失を被っていることも、「愚」の一種であるから。





