「真右」と「偽右」の違い、マズロー五段階欲求説で「偽層」の正体を解明

● 「真右」と原理主義者の姿

 偽右を痛烈に批判する一方、真右はと聞かれたら、私は三島由紀夫と答える偽右は国家をエンタメに使う。三島は国家を自分の運命に接続した。この差は致命的だ。三島の国家論は、哲学、倫理、美学、身体、死生、形而上学という混合体である。三島は日本の最後の真右である。

 三島由紀夫を真右と呼ぶのは、日本の右派に対する最後の敬意であり、同時に現在の偽右への最も痛烈な侮蔑でもある。今の偽右は三島を語りたがらない。語れば自分の薄っぺらさが露呈するからだ。

 行為の性質と評価は当然まったく別物だが、腹に爆弾を巻き付けて人混みに突っ込んで自爆するイスラム原理主義者も、イデオロギーを身体で引き受ける「真」の存在である。三島と自爆者は、身体を差し出し、思想を完遂する。行為の善悪は別として、「本物」と「偽物」の区別はここにある。

 身体の犠牲も払わず、財布も開かず、ただスマホの安全圏から遠吠えする輩、偽右は、右派思想に対する冒涜であるだけでなく、自分の人格そのものへの最大の侮辱行為でもある。

● 日本人は劣化していない、承認欲求の作動図

 日本人の劣化という指摘がある。しかし私は、その見方に賛同しない。これは日本人が劣化したのではなく、マズロー五段階欲求における高次欲求への移動によって、社会全体の心理構造が変化したにすぎない。

 戦後の高度経済成長によって、ほとんどの国民は食糧・住居・治安といった基本的な生存欲求を満たし、安全の土台が盤石になった。その結果、人々の欲望は必然的に高次の承認欲求の領域へと集中上昇していく。だが、欲求ピラミッドの高次欲求空間が狭窄になっていく。個人としての成果が社会から承認されるのは、今も昔もごく少数の人間に限られている。

 そこで大多数の日本人が向かったのが、成果ではなく集団相互承認の領域である。他人に認められないなら、同類同士で認め合う。ここで消費されるのがイデオロギーだ。思想は難しい、だから単純な符号に置き換える。「反中」「親米」「反戦」「反権力」——本来は複雑な政治思想も、スマホ上ではタグのように消費できる「承認の記号」に変わる。

 イデオロギーを理解する必要もない。無料だし、責任もない。承認欲求に応えてくれる便利な道具として使われるだけである。もはや思想ではなく、無料アプリ化した自己満足の素材だ。思想のために献身するどころか、金すら払わない。生活が守られすぎた社会の中で、生産も犠牲も伴わないガス抜きとして利用されている。ただそれだけの軽薄さである。

 つまり、劣化ではない。満たされた社会が生み出した、承認飢餓の副作用なのだ。故に、ここで自然の摂理が静かに働き始める。国家の貧化である。国家が弱り、社会が不安定化し、再び生存や安全が脅かされると、人々は高次欲求の遊戯から降りざるを得なくなる。

 すると、承認遊びに耽った人口は一転して、生存や安全さえあれば満足する「低次欲求人口」へと逆流を起こす。国家の衰退とは、こうした欲望の階層移動が生み出す必然的反作用なのだ。

● 立花の思想的実態

 私は実務型の思想家である以上、基本的には保守基調を維持しつつも、状況に応じて右へも左へも自在に振れる。ゆえに、偽右も偽左も私のSNSでは「集団承認」を得られないし、逆に「偽」として嘲笑されることもある。

 しかし、それで構わない。私は実務の世界で自分の承認欲求を十分に満たしており、追求すべきは「自己実現欲求」であって、SNS空間やメディア上で承認を求める必要はない。私は純度の高いイデオロギーや思想を尊敬しているが、特定の思想に献身したり散財したりするつもりもない。

 補足すれば、偽右や偽左の群れを巧みに束ね、イデオロギーを産業化して利益を叩き出しているメディア企業には、むしろ敬意を抱いている。そこには企業利益の最大化という明確な経営行為があり、それ自体は思想とは切り離されたプロフェッショナルの仕事だからだ。

 経営者は企業利益の最大化を追い、政治家は国家利益の最大化を図る。――これが、私が自らの経済基盤としている理念である。

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