政府に個人情報を差し出すべきか?マイナンバー問題雑考

● 個人情報

 朝、珍しくクアラルンプールの日本大使館から電話がかかってきて、いろいろと個人と家族のこと、いわゆる個人情報を聞かれた。聞くと、大使館は在留邦人の滞在状態や滞在予定(期間)をサンプリング調査し、データ管理の改善に取り組んでいるそうだ。良い仕事をしてくれているのではないか。素直に感謝だ。

 最近、人によっては、個人情報を政府に聞かれるのを嫌がる人が増えているようだ。日本国内ではマイナンバーカードの問題、健康保険証の統合問題で相当もめている。国家による個人情報管理から国民監視の懸念がある、というのは反対側の主な理由ではある。それはよく理解できる。

 性悪説的に、監視目的というなら、マイナンバーがなければ監視できないのだろうか。方法はいくらでもある。国家は誰よりも国民の個人情報をつかんでいるからだ。ただ合理性からいえば、1つの番号があったほうが一元的にもっと効率よく管理(監視)できる。それは間違いない。

 哲学者トマス・ホッブズがその著作『リヴァイアサン』のなかで、「万人の万人に対する闘争」から抜け出すためには、各人が相互の同意に基づいて権利を放棄する必要があるとし、「個々の権利の譲渡→ コモンウェルスの設立」と国家の原初的意義・効用を説いた。現代国家も基本的にこの概念に基づいて運営している。

● 金の流れ

 問題は、国家が管理する個人情報(の射程)はどこまでとするべきか。一番気になることは、個人のお金の流れを管理できるのか、どこまで管理できるのかといったところではないか。

 先日、日本への一時帰国中に某大手銀行に出向いて、海外向けの送金を依頼したが、予想を超えた厳しい審査が入り、補足書類の提出を含めて手続きは数日もかかった。そのお金はどこからどのような理由で来たのか、これからどこへ行きどのように使われるかという収入と支出のチェックである。

 何も怪しいことをしていないので、きちんと書類を全部整備して提出したら、1日で海外口座に着金した。その書類には当然様々な個人情報が入っているわけで、私自身は基本的に違和感なく、政府だろうと金融機関だろうと、求められた個人情報を全開示している。人はいろいろだから、それを快く思っていない人もいるだろう。

 マイナカードについて、画期的な機能があるとすれば、銀行や証券の口座に紐づけることではないか。日本政府の財政は最悪の状況だ。日本円札を刷り過ぎていよいよそれ以上刷れなくなったら、増税、納税管理の強化に乗り出す以外に方法はない。そこでマイナカードの出番となる。国民のお金の流れを把握することが欠かせないからだ。

● だれの責任?

 政府がこのような状況に陥ったのは、誰のせい?政治家だ。では政治家を誰が選んだのか?国民だ。結局のところ、民主主義投票制度下の国家では、最終的責任は国民にある。大衆は往々にして民主主義制に護られる「権利」を主張する一方、その対極にある「義務」を見落としてしまっている。

 独裁専制国家の場合、国家運営とその結果について、政治に口出しできない国民には基本的に責任はない。しかし、民主主義は違う。国民に責任がある。

 アメリカも然り。いよいよ民主主義の国々がなぜ専制国家の中国に負けるのかと、誠に受け入れ難い事実に直面すらできない。そのために懸命に中国を抑制しようとする。そもそも「民主 vs 独裁」という構図も、「民主=善」「独裁=悪」「善が悪に勝つ」といった規定も、すべて虚構されたものだった。

 これが本質だ。

クアラルンプールの日本大使館
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