● 「Who」と「What」――感情の市場に堕した思考
皆さんもぜひ観察してほしい。「Who」と「What」の区分である。SNS上の政治談義の九割以上は、実のところ「政治」ではなく「政局」にすぎない。話題は「何党の誰がどうした」ばかりで、国家戦略や国益、外交、政策といった本質的議題はほとんど語られない。言葉は熱いが、思考は冷えている。
「売国奴を許すな」「国民の敵を倒せ」といったスローガンが飛び交うが、その多くは議論ではなく承認の儀式だ。自分の意見を述べているようでいて、実際は「仲間との同調」を確認しているだけである。異なる意見を論理でなく人格攻撃で封じる様は、まさに文化大革命の群集心理と変わらない。
本来、政治とは「国家のかたちをどう設計するか」という知的営みのはずだ。だがいまのSNS空間は、「誰を好きか」「誰を嫌うか」という感情の市場に堕している。思想の交換ではなく、怒りの共鳴。そこにあるのは政策ではなく、アイドルの推し活に近い心理構造である。
政治参加は本来、すばらしいことだ。しかし、思考なき参加は「政治」ではなく「祭り」である。自分の頭で考え、異なる立場に耳を傾け、国家をどう運営すべきかを語り合う——そこに至って初めて、私たちは政治に参加したと言えるのではないか。皮肉にも、中国の大衆向け言論統制は、この「感情政治」を封じるという意味で、実に生産的である。
● 政治とは理念ではなく利害の計算である
政治とは結局、経済的利害の調整である。
たとえば「反中」「親米」。それぞれ短期・中期・長期でどのような利点と損失があるか、そして両者をどう秤にかけて最適点を見出すか。そこにこそ政治の思考があるはずだ。
しかし現実には、「反中」に疑問を呈しただけで「親中の売国奴」と罵倒される。もはや議論ではなく、信仰告白の世界である。
靖国参拝の問題も同様だ。「英霊を敬う」ことに私も賛同する。しかし同時に、中国の反発や経済制裁の影響を考えねばならない。仮に首相が靖国参拝を恒常化した結果、1世帯あたり年間10万や20万円の経済的損失(サプライチェーンの欠損)を被るとしても、それでも国民が「精神的安寧の方が大事だ」と判断するなら、それは立派な民意である。
問題は、そうした価値とコストのバランスを冷静に考える政治的思考が、いまの日本にほとんど存在しないことだ。政治とは、理念と現実の間で国家の最善を探る知的行為である。SNS上の「政治談義」は、その入り口にすら立っていない。スローガンを叫ぶことは参加ではない。思考こそが、唯一の政治参加である。
● 公明党の与党離脱と似非保守の思考停止
公明党の与党離脱も同じ構図である。多くの似非保守が「理念の違う親中党と別れてよかった」と喝采する。しかし、理念の違いがあっても四半世紀にわたり連立を続けてきた理由を問おうとする者はいない。政治とは結婚と同じである。なぜ結婚したのか、なぜ二十数年も共にいたのか——そこを問わずして、離婚だけを称賛するのは、思考を放棄した拍手でしかない。政治とは、感情ではなく構造を考える知的行為である。SNSで「正義」を叫ぶことは政治参加ではなく、むしろ思考の放棄である。
さらに、ひどい話がある。公明党は中国の指示を受けて与党離脱したという説が流れている――。公明党の斉藤鉄夫代表は、連立離脱の4日前、中国の呉江浩駐日大使と会っていた。そこで中国から「連立離脱」を指示された、という無脳な似非保守者が言う。逆だろう。斉藤代表が呉大使に「連立離脱」を伝えた、と。
国家間関係において、外国大使が与党連立の離脱という日本国内政治の重大決定を「指示」するなど、常識的にあり得ない。むしろ合理的に見れば、斉藤代表はすでに党内意思を固め、その外交的余波を最小化するために事前説明を行った、すなわち「通告」「報告」のための会談であったと考えるほうが自然である。
公明党は長年、中国との関係を重視してきた。だからこそ、離脱という政局転換の際に、中国側へ突然の驚きを与えないよう、筋を通す必要があった。それが外交儀礼としての説明行為。
公明党ほど組織的・合議的な政党では、地方組織、創価学会本部、党幹部間の調整だけでも通常数週間を要する。しかも、連立解消は単なる政局判断ではなく、選挙区調整、予算編成、各省庁人事、支持母体との関係すべてに直結する巨大案件である。
仮に中国から非常識な「指示」があったとしても、それを即日受け入れ、党内合意を3日で形成することなどあり得ない。つまり、時系列的にも組織論的にも、「外部指示説」は物理的に成立しない。
つまり、呉江浩大使は「知る側」であり、斉藤代表は「知らせる側」である。合理性・外交慣行・政治力学のすべてから見ても、「指示」ではなく「報告」である。
いわゆる「似非保守」に馬鹿が多い。なぜ?彼らは思想ではなくアイデンティティを求めているからである。彼らにとって「保守」とは、思想体系や歴史観ではなく、「敵を共有できる仲間の証」である。つまり、思考よりも所属、理屈よりも承認。そこに知的訓練や哲学的素養がないまま「反中」「反左」などのスローガンで結束し、互いに拍手を送り合うことで、自己同一性を補っている。
社会心理学的に言えば、これは「認知的簡略化」と「集団的ナルシシズム」の複合現象である。自分たちが「正義の側」にいるという快楽が、思考を止める麻薬になっている。だから、彼らは「敵を論理で倒す」よりも、「敵を叩くことで自分を確認する」ことを優先する。
そうしてSNS空間では、愚が愚を映し合う鏡像構造ができあがる。互いに「お前は正しい」「よく言った」と言い合ううちに、思考の痕跡は完全に消える。要するに、「似非保守」は保守思想の腐敗ではなく、承認依存社会の政治的症状なのである。
左派の「花畑」が右派の「馬鹿」よりまだマシ。
左派の「花畑」は少なくとも理想から出発している。現実を知らずとも、「人は平等であるべきだ」「戦争は悪だ」「弱者を守るべきだ」といった理念的出発点がある。誤ってはいても、発想の源が感情ではなく価値である点にまだ救いがある。一方、右派の「馬鹿」はその逆で、理念ではなく敵意から出発する。何を守るかではなく、誰を叩くか。価値観よりも攻撃衝動が先に立ち、結果として「保守」を名乗りながらも、保つものを何も持たない。
つまり、左の花畑は幼稚で、右の馬鹿は退化している。前者は夢の中にいるが、後者は理性を捨てて夢を壊す。
● 右も左も、同じ羊の群れ
右と左。二つの色違いの羊の群れである。互いに罵り合いながらも、どちらも羊であり、どちらも群れる習性を持ち、そして同じジンギスカン鍋の具材となる運命を共有している。
この比喩が示すのは、思想の対立が実は「群衆心理」という同根構造を共有しているということである。右派も左派も、結局は「Who」をめぐる感情の群れであり、「What」を考える知的個体ではない。群れの色が違うだけで、本質は同じ羊である。
政治とは「誰を信じるか」ではなく、「何をどう変えるか」を問う行為である。だが、私たちはいま、政治を感情の祭りに変えてしまった。右も左もスローガンの熱狂に酔い、思考を失った羊の群れと化している。
本当の政治参加とは、怒りでも拍手でもなく、冷静な分析と思索である。理念と利害の均衡を見極め、国家の構造を設計する。その知的営みを取り戻さない限り、私たちはいつまでも、ジンギスカン鍋の中で煮え立つだけの羊で終わる。





