大きなガンジーと小さな私、社会運動の公益と自己変革の個益

 ブログに読者からとても良いコメントが寄せられたので、以下紹介する。

 「しばらく前のニュースで、報道ステーションと古賀さんのトラブルがありましたよね。あのとき古賀さんが、ガンジーの言葉を引用しました。『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく世界によって自分が変えられないようにするためである』。たとえ何も変えられなかったとしても、言い続けることにも価値あると信じている人もいます。私もそう思います」(以上、読者コメント)

 ガンジーは「不正義の世界、社会を変える」という確固たる信念のもとで、公益のために「言い続ける」。行動を伴う批判をする。ネットや居酒屋で愚痴だけをこぼす「ガス抜き」とは本質的な違いがある。いや、ガンジーになったつもりでもいいと思う。そこで外部変革の第一歩、第二歩を踏み出せば良い。

 古賀さんは分からないが、ガンジーの信条に賛同し、不正義を排除すべく社会運動など行動を起こす人は本当に素晴らしいと思う。「たとえ変えられなくても世界を変えることを信念とする、その自分を絶対変えない、そのために言い続ける」。それは素晴らしい。本当に素晴らしい。最終的に、ガンジーは世界を変えたのだった。

 そんなガンジーやガンジーを典範として行動を起こす方々を心から尊敬する。それらに比べて私はいかに矮小であること、改めて思い知らされた。それでも、私はその矮小な信念を変えるつもりはない。矮小であっても信念は信念だと自分に言い聞かせながら、自己変革を続ける。無論仕事の場でも同じ、企業それ自体の変革、経営者自身や従業員自身の変革。

 自己変革すらできない人はどうやって社会変革するのか。自己変革ができた人でも社会変革できるとは限らない。大志を持たない私はそう思って、せいぜい自己変革や顧客企業の組織変革にしか取り組むつもりはない。

コメント: 大きなガンジーと小さな私、社会運動の公益と自己変革の個益

  1. 立花先生の記述を読ませて頂くと、批判=愚痴=非行動=代案なしというものがよくあります。

    例えば、政府が原発稼働を推し進めているときに、これを代替案なしに批判、反対するのは非生産的であると述べられていたかと思います。

    しかし、本当にそうでしょうか?
    政府が原発稼働を進めるにあたって、頭を絞りに絞ってそれが国民全体にとってベストだと考えているから、原発稼働に動いたというのであれば、確かに新しい代案がないから代案をくださいよというのはわかります。しかし、実際には少数の、しかし強大な既得権益集団があって、その影響下で原発稼働を推し進めているだけなのかもしれません。

    そうしたときに、代替案がないからそれは愚痴に過ぎず、批判するのは正しくないというのはおかしくないですか?そもそもが国がもっている資力、集められるデータ、動かせるマンパワー、知力の大きさがあってこそ、より優れた正確な代替案が出せるはずですし、国民の意思がそうであるならば、そうするように努力するのが政府の役割です。

    原発稼働反対派は、代替案がなくても反対し、国にその代替案を考えさせる方向に向かわせることで十分役割を果たしているといえると思うのですがいかがでしょうか。

    1.  本稿見出しの通り、「社会運動の公益と自己変革の個益」。原発の場合、政治色なき国家・国民公益論に基づく活動であれば、それは単なる愚痴ではなく市民運動という「行動」として捉えるべきでしょう。ただ、反原発団体は全員素人でなければ、代替案の提示も当然あってしかるべきでしょう。

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