牛乳や水や焼肉や旅行や仕事や・・・、自己責任と他者責任、

 今朝起きて飲んだ牛乳はどこの牧場でどんな牛からどのように絞られたのか。蛇口をひねって出した水には有害な化学物質が混入されていないか。焼肉店で美味しく食べた肉はホルモン剤で肥育されたものではなかったのか。東南アジア旅行に行ったらどこかの観光スポットで爆弾テロに遭わないか。事務所で仕事をしていたらテロがハイジャックした飛行機がビルに突っ込んで来ないか・・・。

 リスクは世の中にあふれている。あれこれ言ったら切りがない。が、いざ被害者になってみると、誰の責任だと問責に奮起する。問責の元気があればまだしも、一命を落としてしまえば問責すらできないものだ。さらに問責される側は責任から逃げようと懸命に踏ん張る。すると、問責が円滑にできなくなり、訴訟やら世論やらデモやら抗議なら、あらゆる手段を動員しなければならなくなる。あらゆる手段の動員にはコストが付きまとう。それだけではなく機会損失も生まれる。いや、正義のために最後まで戦う、それも正義であろうが。

 「責任」の話になると、「他者責任」や「自己責任」、そこでもめるわけだ。さらに「自己責任」の話になると、「大きな政府」やら「小さな政府」やらそういった議論に突入する。そのあたりの議論の歴史も長い。有意義な議論ではあるが、なかなか結論が出ない。結論が出たとしても、リスクは消えない。あるリスクが消えても、また別のリスクが出現する。いたちごっこだ。

 最終的に誰かが全責任を取ってくれたとしても、被害の事実は消えるわけではない。その被害も原状修復や金銭的補償が可能なものもあれば、取り返しのつかないものもある。法的に道義的に補償できない部分、されない部分は事実上最終的に「自己責任」になることは変わらない。もちろん、それを否定したり無視したりすることもできるだろう。

 世界が混とんとしている。「他者責任」や「自己責任」の議論は有意義なものでありつつも、疲弊化していく一面はないだろうか。社会制度の瑕疵や統治者の倫理、政府のあり方、ああであるべきだこうであるべきだといった「べき論」も必要だろう。いや私自身もときどきその議論の一員にはなっていた。ただ、そこから一歩離れて仕事の現場に入ってみると、風景ががらりと変わる。一つ一つのリスクを洗い出し、あらゆる資源や知恵を動員して実務的な回避手法や最小化手法に取り組んでいくのである。外部リスクそのものの成因に若干触れるものの、その善悪や責任所在は基本的に追及しない。なぜなら、リスク管理の仕事それ自体が「自己責任」の原点を踏んでいるからである。

 ・・・(以下顧客レポート用の内容につき、削除する)

コメント: 牛乳や水や焼肉や旅行や仕事や・・・、自己責任と他者責任、

  1. 「牧歌的、農耕理想郷的な美辞麗句」まで持ち出しての、共存共栄の否定は、それこそが非現実的というものでしょう。

    そもそも民主主義制度そのものが、共存共栄を目指したものであって、そうでなければ民主主義制度を採用する意義もないわけです。

    皆でうまくやるために、法律があり、行政があり、司法があるのではありませんか?

    全て自己責任でいいのだったら、議会も行政も司法いらず、みな勝手にやっていろという話になるわけで、それこそ非現実的というものです。

    1.  あなたを説得する必要もなければ、あなたと議論する価値も見出せません。共存共栄の世界をどうぞ作り出してください。その事実で競争や自己責任の世界を否定すればよろしい。頑張ってください。

  2. 責任の所在を求めることではなく、どのように問題を解決することが重要だとすると、「自己責任」と「他者責任」の対立軸で考えることは適切でないように思います。

    孤島ではなく、社会で生きる人間の一人であることを前提とする、人は他者なしで生きることはできません。現在、極端に分業化や機械化が進んでいる故に他者の存在が見えなくなっています。まるでお金と商品があれば、他者はいらず、自己だけで全てが解決できるような錯覚に陥ります。

    しかし、それは事実を見誤っています。どんな商品であれ、他人の手が関わっており、いかなるサービスであれ他者なしには存在しえないでしょう。しかし、それは自己と他者の関係ではなく、「共存」の考えでとらえるべきです。人はどれほど完璧になっても、社会で生活する以上、自己責任で自己完結することはできません。「共存」があってこそ、「あなた」も社会に存在しえるのでしょう。

    より良き社会は、完璧な自己責任から生まれるのではなく、理想的な共存状態から生まれるものでしょう。その共存の状態を政府の大きさで比喩した場合に、「大きな政府」、「小さな政府」と言われるだけです。

    所得の再配分がなぜ必要なのか、貧困の救済がなぜ必要なのか、公共の衛生設備がなぜ必要なのか?それらは、自己責任では解決できないからです。自己責任を否定すれば他社責任だとの考え方はあまりにも短絡的です。社会に属する誰もが己が属する社会に対して、共同責任を負っているのではないでしょうか?

    1.  読む気にもならないコメントですね。私から見れば、このような牧歌的、農耕理想郷的な美辞麗句で包装した、厳しい現実世界からの逃避こそが「無責任」そのものだ。。主旨違い、価値観・世界観の違いなので、私の論点はむろんあなたにとって誤謬です。そう考えてください。議論無用。失礼。

Comments are closed.