自己責任論再考、天津やバンコクの爆発から得た教訓

 自己責任。という言葉は日本人にはあまり好かれないようだ。だが、最終的にやはり自己責任か。

 天津爆発の後続リスクについて、読者からの書き込みもあり、また某日本人組織の元幹部からもコメントがあったように、公的機関としていくら大使館だろうと何だろうと、結果的に現地政府の公表情報以上のものを提供し得ない。あとは企業ベースあるいは個人ベースでそれぞれの情報収集力と判断力に委ねるほかない。つまり最終的に自己責任なのだ。思わず納得した。そういう意味で私が日本の政府に送ったリスク告知の要求書簡も過剰な要求になってしまうので、公開サイトから削除させてもらった。

 たとえば爆発区域近辺の住民で今回、住宅が損傷を受けた人たちはそれで政府に不動産の買い取りを求める。もともと有望な開発区でプレミアムの高い物件として購入したのだが、こんな事件で不動産がたとえ修復しても価値が大幅に落ちるだろうというのが理由だ。

 ただ、これに関して政府としては税金を動員して、買い取りに応じることはとてもできない。基本的に商取引には介入できないからだ。だから、政府が買い取りを拒否することは間違っていない。すると、これもやはり個人の自己責任の世界になる。不動産物件の選定では、場所の安全性、しかも購入した時点だけでなく、動態的に将来の変化も予測していかなければならない。簡単ではない。

 混沌とした時代には、リスクが多様化している。先日のバンコクの爆弾事件もそうであったように、いつどこで何があっても不思議ではない。まったく予測できないような出来事、事件事故があちこちで発生し得る。すべて自己責任の世界だ。飛行機もそうだ。昔はどこそこの航空会社が危ないとか安全だとかというのもあったが、最近はパイロットがメンタルの問題で飛行機を墜落させる事故もあったりして、どんな航空会社でも事故を起こし得る、そういう世界になった。

 リスクそのものの予測可能性、情報の対称性、あるいは当事者立場の強弱に関係なく、自己責任の世界がどんどん広がっている。それはもはや善悪の次元を超えて、事実としての存在を認知しなければならない。他者に責任を求めることがどれだけ難しいか。たとえ他者が一部の責任を取ってくれたにしても、取り返しのつかない損害を受け、回復不能の結果を受け入れざるを得ない場面もしばしばある。

 冷酷な世界だ。企業も個人も自己防衛力を高める以外方法はないように思える。あまり明るい話題ではないが・・・。

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コメント: 自己責任論再考、天津やバンコクの爆発から得た教訓

  1. 今回の問題は、自己責任論というよりも、外交的にどこまで他国内の出来事に関与できるかの限界の問題のように思えます。

    これとは別に自己責任論ですが、いわゆる自己責任論は、一般的に小さな政府を目指す動きです。

    資本主義は、もともとがブルジョア階層が力をつけて、旧権力体制の干渉の排除を目指したことから始まっています。産業革命を通じて、各国が目覚ましい経済発展を遂げたわけですが、結果として、伝染病や犯罪の増加、スラム街の増加、モラルの低下が社会に蔓延しました。さらには、経済恐慌なども繰り返し発生するようになりました。

    そこで、政府が(国よって発生時期が異なりますが)、もっといろいろやったほうがいいということになり、貧困家庭の救済、所得の分配、衛生設備の配置、さらに、経済恐慌からの脱出を目指す公共事業への投資などを行いました。大きな政府の誕生です。

    ところが、今度はそれがうまく回らなくなったために、再び新自由主義というものが現れ始め、中曽根さんやら小泉さんやらが自由化を進め、小さな政府を目指すことになりました。その頃から、自己責任という言葉が大きな力を持つようなってきました。

    しかし、規制緩和の影響から、過剰な競争が始まり、夜間バスの事故などが増えました。派遣の増加から格差が社会問題となりつつあります。

    つまり、現代社会は、ブルジョワ資本主義と同じ轍を踏んでいるわけです。これは明らかに間違いなので、何らかの形で修正が必要であります。もちろん、行き過ぎた大きな政府へと戻っても意味がないので、どこが問題なのかを追及して適切な落としどころを求めることになるでしょう。

    また、日本人に自己責任論が合わないと言われましたが、イギリスでも、「揺りかごから墓場まで」が理想だと言われたことがあります。当時の西ヨーロッパは皆そうだったのではないでしょうか。決して、日本人だけが大きな政府を目指したのではありません。

    個人がどこまでやるべきか、政府がどこまでやるべきかは私たち皆が取り組んでいくべきことで、自然に決めさせるものではないと言えるでしょう。

    1.  外交関係からも他のリスク関連の問題からも、生まれる結果的な「自己責任」。小さな政府という「自己責任論」の原点回帰は大切です。ご提示されたのもその一論点であり、有意義なものだと思います。ただそのテーマはすでに多くの論説もありますし、また議論は広範にわたり複雑な論証も必要で、私はあえて本篇でまったく取り上げるつもりはありません。資本主義制度や政府のあり方の正誤などどうだっていい。「べき論」もどうだっていい。むしろミクロ的に、相手側の当事者、リスクテーカーである企業や個人ベースのあり方で物凄く実務的な問題、物凄く小さな次元です。さらに「私たち皆」という一括りもしません。観点や価値観の多様性があって何も一元的な回答を必要としません。

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