中国経済の崩壊?おれに何の関係があるの?

 「立花先生が(中国経済の)崩壊を言い出して、もう3年になりますでしょうか。ソロスがあと1~2年(と言っているの)ですね。心配ではありますが、中国の庶民が感じ取れるほどの崩壊が来るのはまだまだ先のことであるように思えます。いや、敢えて言えば、あと2年ぐらいの短い期間で、この繁栄のカラーが消えるとしたら、むしろびっくりです。庶民の視点や生活感からすればですが」

 「経済崩壊して、何が変わるのかと。日本のバブル崩壊は確かにひどかった。瞬く間に就職口がなくなり、就職氷河期、フリーターの増加、失われた20年、格差社会。これは経済学者に言われなくても、一般庶民にとっても、身近に感じられた崩壊だったと言い切れます」

 私のブログに寄せられた読者のコメント投稿が、ある面白い命題を提起してくれた――「経済危機(崩壊)と庶民実感の関連性」

 まず、経済危機ないし崩壊は、庶民の生活を奪うものではない。ロシアやギリシア・・・、経済がクラッシュしても庶民は強かに生き延びている。

 マクロ経済への関心や関連の無さや薄さこそが、庶民の強みなのだといっても過言ではない。中国の富裕層はさすがに情況の変化に敏感で人民元をせっせと海外送金しているのだが、それほど資産を持たない庶民はそういうことをしないし、する必要もない。売れるものは売れているし、スーパーやコンビニも繁盛している。そうした可視的経済も、真実の一部で間違いはない。

 次に、日本社会の話。日本人はなぜ日本経済(バブル)の崩壊を身近に感じているのか。それは、日本人と自国経済の間に強い関連性と実感付与性が存在しているからだと、そういう説明しかできない。

 経済が繁栄すれば、苦労せずに正社員に就職できて一生の保障が付く。ある程度努力して社内の人間関係をうまく処理していれば、昇給も昇進も約束されている。いわゆる国民的ライフスタイルや幸福獲得方式が金太郎飴的に標準化されているのである。それが一種の社会的秩序にさえなっている。

 そこで、その標準化された社会的秩序が、経済崩壊によって破壊されたときのインパクトが大きい。国家や企業に人生の期待をかけた庶民、その期待を裏切られたときの失望、苦痛、絶望、憤怒はただならぬものである。一般的な日本人が日本経済の凋落を身近に実感するのは、日本人が自分の所属する国家や企業に、世界に類を見ない程度の連帯、他力本願的な期待、正確にいうと「甘え」を持っているからこその結果である。

 一方、経済学者が中国経済の崩壊をいくら叫んでも、中国人はそんなに反応しない。「中国経済の崩壊?だから、おれに何の関係があるの?」。庶民だけではない。上から下まで、国家意識の薄い中国人はそもそも、自国経済への自覚的な関連性があまりもたれない。国家に期待しないのが常識だからだ。

 庶民層はどんなときでも、ローカル的に食い込んだサバイバルに徹しているし、富裕層は好況を利用して稼ぎ、不況になれば資産を海外に送り、ロンドンでマンションを買っているという「グローバル感覚」である。ローカルかグローバルかであり、中国経済というドメスティック単位は存在しない。

 国の経済が崩壊したら、我が身の崩壊だと。本能的にそう反応するのはいささかナイーブな日本人であって、自国経済の凋落や崩壊が自分の不幸と即関連付けていくのだ。そのへん、中国人の個体的な自立性、サバイバル力がはるかに日本人を超えているのだろう。

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コメント: 中国経済の崩壊?おれに何の関係があるの?

  1. 先生のお立場上、経済重視の観点から見れば仰るとおりだと思いますが、私は「国家観」「死生観」の違いが大いにあると感じています。
    私自身は日本を離れて25年経ち、今では経済的にも全く日本とは関わりがなく、日本経済が沈没しても私には何の影響もありません。でも「気になるのは日本のみ」です(笑)。凋落を放置してはならぬと感じています。これは先生のおっしゃる「甘え」とは全く異質のもののはず。
    なぜ自分がそう思うのか、ここは私自身でも理由がわからないのですが、祖国日本に「母なるもの」を感じていまして、「日本のために何が出来るか」という思いが常に存在しています。
    もしその思いが自分に無かったしたら・・。それが中国の民なのかなと思ったり。

    1.  どんどん建設的な展開があって素晴らしいですね。

       「国家観」「死生観」といったものの存立それ自体がむしろ真っ向から「甘え」の対極をなしているのかもしれません。「母なるもの」とおっしゃいました。思わずグッときました。特に母子間の感情の授受関係(Give & Take)をめぐって、「母に甘えて、甘やかしてほしい」という「Take」の願望と行為の対極にあるのは、「母から受け継ぐ何かを、アイデンティティの形成に繋げ、さらに国家という最大単位の『母』に還元していく」という「Give」ではないかと思うのです。

       さらに価値の置き方という延長線上に「死生観」といった人生の原理原則が生まれ、確固たる人格の形成につながっていくと、こういう読み方を私が取っています。海外におられた25年の歴史はどのようなものか存じ上げませんが、多難を乗り越えた苦労は一つや二つではないことをお察しします。

       「日本経済が沈没しても何の影響もない」という結果は一見遠心的に見えますが、その種の、「甘え」を断ち切った遠心をもし、すべてとまで言わなくとも、大多数の日本人が持つようになれば、日本は絶対に沈没しません。

       この「遠心力」は、母なる慈愛に満ちた「求心力」(「気になるのは日本のみ」がその表出だ)から生まれ、遠心力と求心力のバランスこそが人格の理想的な状態ではないかと、私はそう思います。

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