葡萄が酸っぱい舛添がせこい、ルサンチマンの民は変わらない

 舛添叩きがここまでくると、ルサンチマンの暴走が止まらなくなる。

 キツネが、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけると、跳び上がって取ろうとする。しかし、高所にある葡萄には届かない。何度跳んでも届かない。キツネは「どうせ葡萄なんか酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と捨て台詞を残して去る。

 そのとき、民主主義号というブルドーザーがやってくる。葡萄の木を跡形もなく押し潰すと、キツネが歓声を上げる。「そうだ。そうだ。酸っぱくて食えない葡萄を潰しちまえばいいのだ」

 「酸っぱい葡萄」物語の後半は、私が付け足したものだが、それがいま現実となりつつある。「酸っぱい葡萄」の原理は基本的にルサンチマンである。手が届かぬものの価値を否定し、心の平和を得る。弱者を善、強者を悪とし、弱者が強者の価値を否定し、道徳的非難を浴びせる。

 弱者が強者になろうという欲求と意志を有しながらも、結果的に強者を「悪」と規定し、それを批判する。この「酸っぱい葡萄」現象を、ニーチェがその著作「力への意志」の中で、「力への意志を解釈への意志に変更する」と解明している。力で世界を変えられない人間は、解釈で世界を変えようとする、ということだ。

 しかし、民主主義という制度は、その「解釈」に「力」をつけてしまうのである。解釈が力に転換できる社会的システム、つまり民主主義号のブルドーザーが「酸っぱい葡萄」をたわわに残して去るキツネを呼び戻せば、次の一幕が始まる。それは「酸っぱい葡萄潰し」である。

 最近の日本では、「庶民的感覚」を善とする風潮が蔓延している。それはまさにルサンチマンの典型的な表れである。「庶民的感覚」は善も悪もない。ただの感覚である。それを政治家に押し付けるには何の意味もない。いやむしろ有害である。

 友人のH氏がそのフェイスブックでこう指摘する。「政治家は庶民からの『信頼』がなければ成り立たないのである。しかし『庶民的感覚』で政治をされたらとんでもない結果が返ってくる」。ここで示されているのは、「庶民的感覚」と「信頼」の関係付けの成立という恐ろしい非論理的な事象である。

 大所高所に立った全局観が「上からの目線」と批判されたところ、政治は変質する。庶民なら誰もが知っているタレント議員を立てるのも、結局「庶民的感覚」に答える手法に過ぎない。政策やビジョン、そんな難しいものを語っても選挙民は分かりはしない。何でもイージーに行こう。分かりやすさが一番。

 民衆の頭数で意志を積上げて国家統治ができるのなら、政治家は要らない。会計士だけで済む。政治はそんな簡単なものではない。「庶民的感覚」で理解不能なものもあるし、「上からの目線」が絶対に必要だ。政治家は結果的に政策で勝負し、全局的な実績を挙げるしかない。

 舛添氏が欧米出張でスイートに泊まったやら、麻生氏が帝国ホテルのバーでシガーを吸ったやら、まったくのルサンチマンである。ついでにいうと、ベッキーの不倫事件など、芸能人叩きも原理が同じである。政治家も芸能人も生身の人間だ。私だってベッキーのような美人に誘われたら不倫のどん底に落ちるかもしれない(この一言は妻のパソコンにモザイクをかけておこう)。

 ルサンチマンは、要するに高位者や有名人の「僧侶化」を求めるものである。大局的な業績を上げてくれる大物なら、ファーストクラスで上等なシャンパンとキャビアを楽しもうと、超一級ホテルのバーでキューバ葉巻で紫煙をくゆらそうと、存分にやってもらえばよい。その一服が明日の活力や斬新なアイデアにつながれば、それだけでよい。

 何でも「庶民的感覚」をもって政治をされたら困る。ポピュリズムは政治のタブーである。ヒトラーだって「庶民的感覚」の持ち主だったのではないか。「庶民的感覚」に源をもつポピュリズムが最終的に総意の暴走に発展し、その結末は戦争や大惨事である。戦争とは、「戦争を仕掛けること」と「戦争を仕掛けられること」の二面を持ち合わせていることを絶対に忘れるべきではない。日本が前者の暴走から後者の暴走にぶれる「振り子現象」を、いまもっとも警戒するべきところだ。

 舛添氏の肩を持つつもりはまったくない。彼は大した実績も出していないのに、せこい。それは事実だ。失格だ。決して大物ではない。ではなぜこんな人物を都知事にしたのか。2014年舛添氏が当選した都知事選挙の投票率は、わずか46.14%だった。自分の一票でどうせ何も変わらない、それはまさにルサンチマンの民である。一票の積上げですべてが変わる。数字を見ればわかるだろう。いやそれでも、政策を語られても分からない。ただの甘えだ。分からないなら、勉強しなさい。

 葡萄が酸っぱい。舛添がせこい。そして、ルサンチマンの民はいつまでも変わらない。

 末筆ながら付言しておこう。私のこの文章は決して多くの日本人に気分良く読まれることはないだろう。批判もたくさんされるだろう。どうぞ存分に批判してください。私が反論しないのは、反論する価値を見出せないからだ。私を批判すれば、批判者のあなたがひと時の幸せに恵まれる価値があるならば、光栄だ。

 ただし、あなたが解釈を変えても、世界は変わらない。

タグ:

コメント: 葡萄が酸っぱい舛添がせこい、ルサンチマンの民は変わらない

  1. 深く同意します。連日、マスコミが垂れ流すしょうもない情報に一般庶民は洗脳され、日本の民度がどんどんと落ちているのを実感します。なので、私も立花さんと同じく地上派の報道番組はみません。(そこまで言って委員会を除く)まさに、格差社会が実現しつつありますね。本当に「教育」とは国の基盤ということを実感します。

    1. hiro@Osakaさん、まったくご指摘の通りです。「教育」です。第一に教育、第二に教育、第三にまた教育。この国を変えられるのは政治家ではない、教育です。

    1.  すでにお答えしましたよ。戸田さんがジョブズの人生哲学を持ってこられたので、そのままお答えしました。私はジョブズではないので、死に方を自分で選びます。その死に方につながる生き方の選択肢が現れたとき、選択判断するということです。

  2. お寺の大鐘は小さく撞けば小さく鳴り、大きく撞けば大きく鳴る。 貴殿ならで仕事があるはず。Remember that you are going to die is the best way to avoid the trap of thinking that you have something to lose.
    Help Taiwan New governmen .You should know what and how to do.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です。