貧困は「自分のせい」と発言した落語家が、総攻撃を受けた。
私が聞きたい。貧困は自分のせいでなければ、誰のせいだ?政府のせいか。だったら、違う政治家や政党に票を投じたらいい。それでも政権が変わらなかったら、大多数民意のせいになるか?では、政権が変わっても引き続き貧困だったら、誰のせいだ?
「貧困は誰のせいか」という命題はそもそも存在しない。「地震は誰のせいか」と同じ次元。どうしても「地震の責任」を追及するなら、それは「逃げ遅れた人間のせい」になる。
「貧困」。英語の「Poor」という用語は、単なる「貧困」を指しているだけでなく、「品質の悪さ」「病弱の不健康さ」「発想の貧弱さ」「知恵の乏しさ」「順応性の足りなさ」など「劣ること」ないし「悪」をも意味している。
故に、「貧困」というのは、物心の両面を表現している。経済的貧困はともなく、心の貧困なら、紛れもなく自分のせいだと、私は断言する。経済的貧困では必ずしも不幸とは限らないが、心の貧困は不幸の根源になる。
百歩譲って、貧困は政治や社会のせいとしよう。では、どうするの?投票しても何も変わらない。最近一部の言論では、「この(格差社会の)ままでは、革命が起きる」とまで述べられている。なるほど、革命ね。じゃ、誰がその革命を起こすのか。待っても待っても、誰も革命を起こさなかったら、革命を起こしてくれない「誰か」のせいになるのか。
さらに百歩譲って、革命が起きたとしよう。そこでこの輩は無為のまま革命の成果を横取りしようとする魂胆が見え見えだが、それは無理であろう。革命を起こした者が政権を取り、独裁者になって、輩がもっと悲惨な貧困生活を強いられたときに、それはまた誰のせいだ?今度は独裁者のせいだ。よかろう。「独裁者のせい」と言ってみなさい。今度こそ、ただじゃ済まされないぞ。投獄や処刑にされたらオチだ。
貧困は誰のせいだろうね。